琢磨会会報第38号



森 恕 『拇指丘を意識せよ』
依田きよ子 『父の思い出』


森 恕 『拇指丘を意識せよ』

 「両手どり合気投げ」の基礎になる「合気あげ」は、一見簡単そうに見えるが難しい技である。
 当流の技法は簡単に見えるもの程難しいといわれているが「合気あげ」はその典型的な一例である。
 我々では、受け手の「肘が曲がる」やり方であげているのであるが、この方が「肘を延びる」やり方より余計に難しい。それ程難しい技を何故初心者の段階から稽古させるのかという疑問を持つ向きもあるかも知れない。
 しかし、この「合気あげ」には、我々が心得ていなければならない、或いは身につけておかなければならない、いろいろな手技の基礎的な技法のコツが含まれているので、大切に研究をし、念入りに稽古を積む必要があるのである。
 この技法の場合、我々は、肘から先を立て、更にその肘を前に押し出すようにして、最後的にはこちらの両手首をとった相手の手首が、内側に僅かに曲がる形になり、その結果、相手の体が浮いて爪先立ちになるように技を施すのである。
 久先生は、とられた両手の脇を締め、掌を開いて指先を上に向け、あたかも蓮の花の開くように、ふわりと内転させるようにやれと教えておられ、その花のように開くさまを教えられるために、指を開き、手首を立てて、「こう、こう、こう」と声を出されながら、分解写真のように、手首の動きを示されていた。
 この技の難しさは、相手がこちらの両手首を握り締め、場合によれば、体重までかけてきている状態のとき、彼我の唯一の接点であるこちらの手甲だけを使って、どのようにして、このような決定的に不利な態勢を挽回しながら、しかも相手の身体操作を行うことができるのかというところに、すべての命題が集約されているところにあるのであって、自分の手甲を使って、相手の掌のどの部分に、又どの方向に、どのような力を加えるかということについて工夫をしなければならない。
 こちらの手首を掴んで手甲を抑えている相手の掌の中に、当然、甚だ窮屈で何をしようとしても簡単には動きがとれない。しかし、面白いことに、そのような状態の中でも、工夫次第ではいろいろ相手の掌に刺戟を加えることができるし、相手の腕を動かすこともできるのである。
 これは、相手が単純な物体ではなく、敏感な神経と、屈曲伸展に限界がある関節を持ち、しかし創造神があらかじめインプットしてくれてある防衛本能を具備した肉体の持ち主である人間であるからこそ可能なのである。
 もっとも、この「合気あげ」については、居捕であれ立合であれ、正面から両手首を掴むというかかり方は、実際には行われる筈がないから現実的ではないという声があるが、こういうかかり方は、武術的身体操作方法を学ぶために設定した一定の条件であるから、非難はあたらない。
 稽古を繰り返していると、設定されたかかり方に対する工夫は当然としても、単に手を出して向かってくるという、設定条件からは外れたようなかかり方をされても、十分に対処ができる程の、技の根幹をなすコツを会得できるようになるのである。
 ここまでくれば、相手がこちらの手首を確実に把握しているかどうかということは問題ではなくなり、相手がこちらの手甲に掌で触れさえすれば「合気あげ」ができるのである。この要領は、大正道場での稽古や金剛山の合宿の時に見て貰った通りである。
 この「合気あげ」の要領については、各人夫々に工夫があると思うが、私が会得しているコツの一つが、常に相手の掌の中に拇指丘を意識しながら行うことである。これによって思いがけない程の効果があるのであるが、今回はこれで紙数も尽きたので、単にヒントだけを提供して、詳細は又機会をみて稿を改めて述べたい。


依田きよ子 『父の思い出』

 父の学生時代を書いている。「オイ、まだ神戸高商かえ。もういい加減に卒業させて貰いたいネ。急がんとおまえさんの生きとるうちに終わらんじゃろが」と父に冗談を云われそうな気がする。前々回は相撲部のことだった。今回は土佐寮のこと。
 私が小学生の頃、梅田の家には沢山、神戸高商の後輩の人たちが出入りした。『土佐寮』という言葉を聞いた。私は何となく父が学生の身分で学生下宿を経営して祖母や伯母に賄いを任せたのかと思いこんでいたが、それは誤解で、のちに父の書いたものを読んでわかった。ドイツでは大学生が各地の大学を良き師を募って廻り歩く。この短期で移動する各地の学生のために地方毎に作られた友團の宿舎があって、移動して来た学生は多くこの地方友團の宿舎から通学する。神戸高商でも全国から学生が集まる。めいめい先輩を頼って集まり、おのずから各地別の集まりを私生活では作っていた。学校当局ではこの学生の特殊条件を積極的に生かすため、ドイツの友團組織に倣って友團組織を作り、学生を出身地別の友團に属せしめ、これに縁ある教授を監督としてつけた。浪華友團、土佐友團など六十余りあったが、のちに欧州大戦末期で戦争のため物価があがり、学生生活が困窮をきわめたので、友團ごとに寮を作り、先輩の実業家に応援を頼んで、自治ながら学生たちの生活、健康、卒業後の進路相談まで面倒をみた。受験生や東京へ行くひとの宿泊や、いろいろ、まことに便利な存在であったらしい。ナルホドね。近代国家として欧米先進国に追いつけ追い越せとしゃかりきの日本では、いわば郷党ぐるみ、軍団として走っていたのだ。
 さて土佐寮だが、後年土佐寮の出身者がわが家に集まると大さわぎ。初めは礼儀正しいが、酒が出る。ハチケンが始まる、土佐言葉が飛び交う、ニイだサキハマだと地図にものっていない出身の寒村を自慢しあう。あの二人が噛みついたりふざけて喧嘩するのは昔二人が恋仇(こいがたき)だったからだよとあとで解説を聞くとか。女兄弟の私などが呆れかえるほど、みんな男の子に戻ってふざけあっていた記憶がある。
 日支事変から太平洋戦争にかけて、当然仲間から出征者が続出し、残った家族の身上相談やら疎開の心配など、いろんなことがあった。やがて敗戦。軍国ニッポンの錦の御旗が失われると、誰も彼も、ストンとキツネが落ちたよう。
 いろんな光景があったなァ。父と私が二人で暮らす高円寺のアパートへ叔父が訪ねて来たとき(叔父も土佐寮出身だった)父が言った。
「どうぞイ、福サン。四十年たって、わしらはすっかり振り出しに戻って終うた。」
温厚な叔父はただ苦笑いするばかりだった。
 戦地で、恐らく父よりずっと過酷な試練に堪えた後輩の帰還兵・長谷川さんと阿佐谷の家で再会したとき、彼は言った。
「わしら、もうオンチャンに頭をおさえられることはないもンね。世の中かわったんだから。」
父は少しショッパイ顔をして黙った。やがて少し笑った。驚いていたかとも思う。
「そうかえ。世の中かわったかえ。」
ふと、空白の時間が流れた。

 勝鬨という角力とりが居た。父たちに稽古をつけてくれた元本職の力士だと思う。このひともなつかしい。梅田の家へよく現れた。
 芦屋の水害で「ミナナガサレタ ハダカダ」とカチドキから電報が来て、小学生の私でもその電文にカチドキの肉声を聞く思いがした。梅田の家で祖母が死んだとき、モーニングを着こみ、トランクを提げ、改まった顔つきで飛びこんで来たカチドキの小父さん。父の神戸高商は少くも太平洋戦争が終わるまで、濃厚に父の、私たちの周辺にあった。

 次は高商を通じて最も縁の深かった田中四郎のこと。父も「思出の記」のなかで特に一章を戦死した彼のためにさいている。こんな風に…
『思い出す選手はいろいろ居るが、私と最も関係の深いのは田中四郎である。四郎は和歌山商業の選手で中等学校の部で優勝し成績も優秀であった。高商角力部の名声を揚げ得るはこの男一人と思ったので、直接本人に事情聞いた。家は和歌山市新地にあって、養父は新地に俥帳場を持つ侠客であること。自分から上級学校へ進学させてくれとは言い出せないが私に交渉を一任するとの返事であった。数日後、私はこの老任侠を新地の帳場に訪ねた。喜んで招じられて、長火鉢の縁で一杯御馳走になりながら話をかけた。
「私には実子がないのでこの土地で生まれた子供を三人、貰いうけて育てている。兄は商業を了えて働いている。四郎を上の学校へやるとすれば学費位は出せんこともないが、兄をやらず四郎だけを上の学校へやることは、いろいろな関係で出来ない」とのこと。
「それでは、この久に四年間四郎を任せてくれぬか。必ず一人前の男に仕上げてみせる。必要なら兄さんには私から了解を得手もいいが…」
と切りこむと、田中老人は
「いやァ、それならわしには文句がない。おまはんに任す。四郎を弟分にして面倒をみてやって貰いたい。」
とのこと。その夜は田中の親戚の家に泊まり、翌朝なお念を押して帰った。入学試験もみごとに合格したので翌大正七年春に入学した。学費は引き受けたもののどこでどのようにと具体的あてがあった訳ではないので、とりあえず四本家に、次は鐘紡の長尾家に置いて貰った。私のような正真正銘の苦学生とちがって四郎は貧しいながらも大事に育てられて来たため双方に苦情が出てうまく納まらぬ。鈴木商店の大番頭、金子直吉氏に「余り仕事をさせず、一人の秀才に学問をさせる積もりで育てて貰いたい」と頼んだところ「よしよし、家には書生は沢山居るからそんなに働かなくとも良い。折々三男の勉強をみてやってくれれば上等じゃ。じきに連れて来い。」とのことでこのたびはうまく運んだ。四郎もこの家には安心して落ちつき、のちに次女の須磨子さんを女房にし、私の取りもった縁で金子家の人となってしまった。
 四郎は鈴木関係の山陽電鉄を経て飯島播司先生の世話で栗本鉄工所に入り、さらに飯島先生の出版文化協会(戦時下の大政翼賛組織の一つ)入りに従って出文協に入り、専務理事となった。この頃が四郎の最も得意の時である。飯島先生は出版文化協会を追い出され、四郎は残務整理に一、二年居たが、南洋旅行を最後に退任した。さてこのあと四郎の行先をどうするかということになった。
 周りの事情でこん望された神戸製鋼所入りも、四郎自身がのぞんだ軽金属統制会も、金子老人の猛反対にあって実現せず、紆余曲折あって鈴木商店の後身、太陽産業の重役として復帰した。  さて、ここまでは彼に私が盡したことである、彼は私に対して何一つやってくれた訳ではないが、と父は書いている。最後に私が朝日新聞(当時の父の勤務先)の命令によりジャバへ行くことがきまったとき、私の真意を察して東京へ飛び、石井さん(石井光次郎)と会って私の退社を決め、窮死から私を救ってくれた。  と。しかしこれは後で考えれば果たして良かったか悪かったかは判らぬ、皆この運命であった。と父は書いている。
 田中には最後には召集令状が来て出征した。彼はひどくこれを嫌って何とか逃れる道を講じていたが万策つきて遂に出征した。私もおぼえている。「朝鮮はたいそうおだやかで、のんびりして居ます」などハガキが来たことを。
 終戦の翌日、ソ連軍と戦って清津市で、中学校の土俵の上で隊長として敵弾に斃れた。彼の運命を開いた土俵が彼の終焉の地となったことは感慨ふかい。』と父は書いている。