二本松城  2006/03/25
二本松城(霞ヶ城)  福島県二本松市  創建 1414年  創建者 畠山満泰・丹羽光重
主要城主 畠山氏(二本松氏)、加藤氏、蒲生氏、丹羽氏
三の丸にあった案内図
A箕輪門  Cるり池  J本丸跡 L日影の井戸  HK二の丸  (現在地)三の丸

駐車場から  石垣上の城壁と二重櫓



霞ケ城址銘碑

二本松少年隊の像

1868年
戊辰戦争で幕府軍側にあった二本松藩は西軍の北上を阻止するため、家臣の精鋭すべて白河口まで出撃させていた。
そのとき、三春藩が西軍に寝返った。二本松に危機が迫った。
郡山・三春に2500の西軍が集結、「会津とろうか 仙台とろか あすの朝飯二本松」と謡いながら二本松に進軍を開始。
二本松藩の兵力は留守人300足らず。米沢に援軍をもとめるもだめ。
兵力の不足を補うべく16、17才の少年にも出陣の命令が出た。まもなく、13才の少年も戦場に向かった。
木村銃太郎を隊長とする少年隊25名は、大壇口に布陣し、西軍と戦った。 多くの少年が戦死した。
三春藩寝返りへの「恨み」は強く 三春との縁組はしばらく消えた。「三春ギツネにだまされるな」ということばがある。
会津人が長州藩への恨みをいだくも同様、会津人の三春藩への思いは今も残る。
裏切りは その場を凌ぐことはできても 歴史では蔑まされる。(福島県風土記をohobunsya参考にする)
二重櫓

箕輪門  城の正門  1982年復元

復元された城壁

振り返って、二重櫓・箕輪門・平櫓を見る(裏側)

箕輪門を入り、枡形の石垣がを通り三の丸に入る

三の丸から本丸への道  三の丸から本丸への道 本丸入口も奥まった所にある。

石段で歩きやすくはなっているが けっこうきつい

看板 道案内

日影の井戸  「日本の三井」といわれる。(千葉県「月影の井」 神奈川県「星影の井」)。井戸の深さは約16m。

本丸がみえる 本丸の石垣。
山頂の曲輪群は、二本松城が会津領の時代、支城として加藤明利が城が改修した。
写真左下の石垣は 慶長期の蒲生氏郷による「穴太積み」様式。右下の石垣は最近築いたもの?

1995年修築復元の石垣

本丸まで歩いてきてビックリ 車でもこれた 

山頂部分は 本城 東城 西城 三つの曲輪で構成される。
天守台跡

本丸跡 本丸西櫓跡 櫓石垣  本丸跡は広いが何もない

見晴らしが良い。

安達太良連峰  山頂部の本丸・天守台跡からの眺めがよい。

帰りの下りも結構大変 桜が咲いていれば・・・  紫陽花もいっぱいあるようでした・・・

三の丸

箕輪門を過ぎて、御殿跡へ入る塀重門跡に残る 枡形



奥州街道 白旗ヶ峰山頂に築かれた「中世の山城」と 丹羽光重が築いた山麓の「近世城郭」からなる。
山麓に よく霞がたなびいたので 霞ヶ城とも呼ばれた。 幕末の戊辰戦争では新政府軍に攻撃され落城 全ての建物が焼失。
歴史沿革
1394〜1427年 
奥州探題の畠山満泰が、山頂に居館を構える 140余年にわたって畠山氏9代の居城となった。
1585年 
伊達政宗の父輝宗が二本松城畠山義継に拉致されかけた時、政宗は父もろとも義継を射殺(粟の巣合戦)。
翌年に政宗の執拗な攻撃を受けて落城、城代が置かれた。
1590年 
豊臣秀吉の奥州仕置により会津の蒲生氏郷の属城となる。石垣が積まれるなどして近世城郭として整備。
上杉、蒲生、加藤氏の会津入封に伴い城代が置かれる。 徳川時代初期も会津領として蒲生.加藤氏の支配下。
1598年 
上杉景勝領となる。関ヶ原後再び蒲生氏が会津に入る。
1627年 
松下重綱が5万石で入城、重綱が没すると松下氏は三春へ移り 入れ替わって三春から加藤明利が入城。
1643年 
丹羽光重が白河城から10万700石で入城。
1646年から10年がかりで、山頂の霧ヶ峰城を廃し、山麓に近世城郭の建築開始。以降幕末まで丹羽家11代が続く。
1868年 
戊辰戦争で落城。建物焼失。
1982年 
箕輪門復元
1993年
本丸石垣復元工事