■感動のある生き方を求めて 2000/11/2  2000年度東海村文化講演会 東海文化センター 鈴木健二(すずきけんじ)さん (パンフレットより)
■プロフィール 1929年東京都本所区(現墨田区)に生まれる。旧制弘前高校、旧制東北大学文学部美学美術史学科卒業 1952年アナウンサーとしてNHKに入局。 「こんにちは奥さん」「歴史への招待」「クイズ面白ゼミナール」などの司会で人気を集める。 ギャラクシー賞個人賞、テレビ大賞優秀個人賞など受賞歴も多彩。 
1988年NHK退職後、熊本県立劇場館長に就任。 熊本で得られる全収入を投じて熊本県立劇場文化振興基金を創設。 人材育成を目的として 社会人のための「日常塾」を主宰、地域文化のために奉仕的な活動。 1993年、障害者と健常者4,000人による「こころコンサート」を成功させる。 1999年4月 青森県立図書館館長に就任。 文化アドバイザーとして地域文化の振興に努めている。そのかたわら文筆でも活躍。 著書「気くばりのすすめ」ほかベストセラー多数。
■講演  青森からきました。勝田駅で降りタクシーで東海村まできました。途中暗いところを通ってきました。ずっと暗いんです、今日呼ばれた理由が今わかりました。わたしは、紹介頂いたように明るい人間です。だから呼ばれたんですね。NHKを退職後かなりたちましたが今でも、「テレビデオおなじみの」と良く紹介されます。
あるところでは「ドラム缶でおなじみの」といわれたこともあります。東海村では事故がありましたね。私は、1960年代原子力の調査をしたことがあります。そのとき思ったのは、事故は全て人災によるものではないでしょうか。原因の一つに住民、メーカ、反対派の話し合いがないようにおもいます。
■生い立ち  今、わたしは青森にいます。生まれ、育ちは東京です。国技館は家の裏にあります。先祖代々の江戸っ子です。昭和20年の東京大空襲、東京の下町が焼け野原になるまで、旧制中学を卒業し旧制高校に入るまで、隅田川のほとりで育ちました。
■靴屋さんの話  ところで、アメリカに同じ大きさの靴屋が三つならんでいました。右側の靴屋が店を高くして、「アメリカ一の靴屋」の看板を立てました。そしたら、左側の店は、しばらくして、右側の靴屋よりも更に店の高さを高くして、「世界一の靴屋」の看板を立てました。困った真ん中の靴屋はしばらくして、「入り口はここ」という看板を立てました。

所詮、世の中とはこのようなものです。見方をちょっと変えればいいわけです。
■I君、S君のこと 人間はどん底から立ち上がると強いものです。わたしは、小学生のときは、男ばかり60人学級でした。1年から6年まで同じクラスで、先生も同じでした。先生は木村先生といわれました。I君、S君が知的ハンデを負っていました。当時は、二人がけの机でした。私のとなりは、いつもI君か、S君でした。
わたしは生まれながらのど近眼でしたので、席は何時も一番前でした。I君か、S君のどちらかが私の席のとなりで、もうひとりは私の席のうしろでした。視力検査はいつも嫌でした。1歩前に出ないと一番上の字が読めませんでした。視力は、0.08でした。当時は、小学生でメガネをかける人は、少なく、五年生のときはじめて眼鏡をかけました。世の中が明るくなりました。メガネを作った後の視力検査の時は、検査の前にすべておぼえてしまいました。しかし、メガネをはずすと指している棒が見えませんでした。そのとき、「ずるいことをしてはいけない」と学びました。学校では、毎日騎馬戦がありました。騎馬戦では、いつも最後に先生の騎馬とI君の騎馬が残りました。I君の力は強かったです。そして、何時も最後にI君と先生は一緒に地面に落ちました。そして先生は、I君にいつも「ありがとう」といっていました。何故、毎日「ありがとう」なのかわかりませんでした。いまでもわかりません。I君は、60人クラスの中でただひとり皆勤賞を卒業式に受賞しました。当時、皆勤賞の人は他の賞状より大きい賞状をもらいました。私たちは金免状とよんでいました。S君は、「卒業までにカタカナで自分の名前を書ければ良い」と、先生は思われていたみたいです。そのS君に、卒業の記念に何かノート書いてもらおうとお願いしたら、漢字で名前と住所を書いてくれました。それをだいじにもっていました。しかし、昭和20年、東京大空襲で残念なことに失ってしまいました。今でも残念に思っています。20年位前、木村先生が亡くなられました。木村先生は、校長、教頭にはならず、ずっと担任で貫いた人でしたから教え子がたくさんいました。多くの参列者がいました。わたしの参列した葬儀のなかでは、いちばん参列者が多かったです。わたしは、先生の第1回目の生徒で6年間ずっと教わったということで、弔辞を読まさせていただきました。学校卒業以来あっていなかったI君、S君がひつぎをもっていました。びっくりしました。東京大空襲の中をどのようにして知的ハンデを負って二人は生き延びたのか。東京大空襲と戦後の食糧難で多くの同級生はなくなりました。知的ハンデを負ったI君、S君がどのようにして生き延びたのか今でもわかりません。S君、I君が何故木村先生の葬儀を知り葬儀にこられたかも不明でした。その時、木村先生の教育が実ったと思いました。教育は人を育てていくものです。話し合いにより物事を進めていくことが大事だとおもっています。
■プラシマン先生 1792年インド半島に、尊敬していたプラシマン先生に会いにいきました。バックを二つ持ち、いろいろなものをお土産として持っていきました。プラシマン先生には、どうしても一度会いたいと思っていました。先生は小さな村落を次々と診療されていました。そこでは、患者さんも先生も「ありがとう」「ナマステ」といいます。何故治療をしている先生がナマステというのか不思議に思いました。質問してみました。先生は、「私は、対処療法を患者さんに教えてもらっている。」というのです。「昨日の人には、このような症状だったが、このように薬を投与したら治った。」つまり、患者さんから教えてもらっているわけです。毎日、多くの人に「教えて頂いているわけです。ですから、ナマステ、ありがとうなのです。」わたしは、先生の考え方に感心しました。東海村でも、皆さんが「原子力をつかわせてもらっている。」「原子力で電気を起こさせてもらっている。」と考えてもよいのではないでしょうか。木村先生は、騎馬戦でI君から「自分の健康を感じさせてもらっていた」のではないかともおもいました。しかし、本当のことはわかりません。人間は、自分の周辺からたくさん得るものがあるわけです。
何かを考える。
JCO事故では、「しゃくし」でやっていることを誰もが気づかなかったわけです。
情報化時代といいますが、私たちは、情報から何かを考えなくてはいけないとおもいます。
今の教育は、考えることをあまりやらないとおもいます。図書館では、今の子どもは参考書を読むんです。
今、青森県内の67市町村を歩き回っています。コンピュータ時代に考える習慣を身につけることが大事と考えています。
■薬指のはなし  皆さん手を出してください。手を握ってください。親指を立ててください。次人差し指。次中指。薬指はどうですか。五本の指のなかで何故か薬指が立ちにくいんです。皆さん知っていましたか。薬指は、余り使わない清潔な指なんです。ですから、結婚指輪を薬指につけるんです。皆さん知っていましたか。・・・エー、知らないでやっていたのですか?  結構、当たり前のことがわからないんです。
■九九の話  次、小学3年生の算数です。次、九九のはなしをします。小学3年生の問題です。

計算結果を並べると1の位は下から並べると0から9までならびます。計算結果の1の位と10の位を足すと全部9になりますね。どうしてでしょう。皆さんにわかっていましたか。今日わかった人はどのくらいおられますか?これ、小学校3年生の問題です。しかし、日本では九九の計算ができれば良いわけです。ところが欧米では、ホワイトボードに書いたようなことを考えるわけです。
■不思議な計算  つぎに、563の1位の位と百の位を逆にすると365。563から365をひくと198になります。563−365=198。
1と9と8をたすと18になります。1+9+8=18。198の1位の位と百の位を逆にすると891。198と891を足すと1089になります。
198+891=1089。

421で考えると次の様になります。421−124=297。2+9+7=18。297+792=1089。他の数字でやってもおなじように最後は1089になります。どうしてでしょう。皆さんわかっていましたか。今日初めてわかった人はどのくらいおられますか。小学校3年生の問題ですが意外とわからないことが多くあるんです。結構、当たり前のことがわからないんです。
■ハーバード大とプロセス  原子力は、必要だが不要でもあるわけです。こういうのを「トレードオフの時代」といいます。結論のでない科学を使っているんです。このような場合は、皆で考えるしかないんです。日本の教育は九九ができればよい。日本は答えが出せればよい。欧米では違っています。ハーバードは考えるプロセスを大事にしています。このようなはなしもあります。世界的に有名になるAさんが、ハーバード大を受験したそうです。数学の問題は、0点だったそうです。しかし、入学できたそうです。何故、0点で入学できたのか。聞いた話では、Aさんの回答は、答えは間違っていました。答えを導くまでのプロセスがユニークで、ハーバード大のどの数学教授も思いつかないユニークな考え方をしていたから入学できた。日本では、答えが間違っていたらだめです。入学は出来ません。このような教育では、真似事は上手に出来てもユニークな思考ができないので、個性ある独創的なものは出来ません。
■計算の話し つぎ、もう一度数字の話をしましょうか。前に座っている方、四人ステージに出てください。わたしは、ホワイトボードをみません。ホワイトボードに四桁の数字を適当に書いてください。書いた四つの数字を適当に並べ替えてください。十の位の数字に丸をつけてください。残った数字を足してみてください。・・13です。

丸をつけた数字は、5ですね。4617−1764=2853。5にまるをつけ、ほかの数字を足すと13。○をつけた数字は、18−13=5となります。欧米では九九をやるとこれをやっているんです。足した数字を9,18,27の近い数字からひくと丸をつけた数字になります。このようなことを日本ではやりません。九九ができればいいんです。考える勉強でなく暗記する勉強になっています。
■考える勉強  考える勉強をしなければいけないとおもいます。どうしたらよいか。生活の中に考えることがなければならないと思います。仏教で言えば、知恵は、文殊菩薩 慈悲は、ふげん菩薩 皆が知恵を出して解決することが大切だといっています。《色々話があったが理解できなかった・・・》561億年後には、弥勒菩薩があらわれます。その間までは、どうするのか。お地蔵さん、虚空尊がいるわけです。お地蔵さんは、目を閉じています。これは、聞いているポーズです。このようなことを昔の人は知っていましたが、現在の人はだめです。このようなことを親が子供に教えなければいけませんが、親が知らないので出来ません。終戦後このようになりました。
相手の話を聞く  現在の、日本は忙しい。だから、相手の人の話を聞きません。これではだめです。いつでも話し合うこと。相手の話を聞いてよく話しあうことが大切です。だめなときはテロ、戦争となるわけです。東海村の原子力については、メーカ、住民、反対派の人が良く話し合って行かなければなりません。
人間は聞くところに寄り添っています。東海村の健全性は、日本の健全性になります。自分を中心に考えた場合 自分−父母−祖父母−そう祖父母−高祖父母−先祖 となります。このことを皆さん知っておられましたか。子供に教えられないのは自分が悪いんです。世の中のことは自分から考えることが大切です。日本人はこれを他人に転化します。あの人が悪いからだめだ。他人が、これをやったから私もやろう。他人百姓といいます。答は、間違っていてもいいんです。後で正しい答を出せばいいんです。世の中のことは自分から考えることが大切です。
◆今、私は、青森県内をまわっています。朝9時に学校に行って話をします。そのあと地域の方に約1時間、その地域の現況を聞きます。続いて文化・福祉・教育・スポーツ・環境などについて代表者と懇談したあと、午後は6時まで地域を調査します。夜は講演の会を開きます。12時間休みなしの労働です。子供達の前で話をします。わたしは、何度も「答は、間違っていてもいいから自分の考えをはなしてください」と、話します。教室の子は、しばらくすると手をあげます。白川さんがノーベル賞をもらいました。ノーベル賞をもらったから、次は文化勲章だ。などといっています。これは、日本のダメなところです。白川さんの場合、助手が調合を間違えたから発見が生まれたわけです。答は、間違っていてもいいんです。後で正しい答を出せばいいんです。
あみだくじは、どうしてあみだくじというんでしょう。それは、仏様の背光にスジが入っているからです。わかっていましたか。南無阿弥陀仏。《その後のはなしは理解できませんでした》むかしの人は知恵を持っていました。良き文化は心の余裕が無いと生まれません。「おげんきですか」「おかげさまで」「おかげさまで」は、あなたのお慈悲で生きていますという意味です。知っていましたか。「いただきます。」「頂戴します。」神棚の寸法は三尺七寸五分です。相撲の房は、紐の長さが1年を表す12寸です。先の房が365本です。皆さんご存知でしたか。人間の命の長さは決まっています。しかし、命の道の幅を広げるのは自分です。生活の中からやって行けばいいんです。「ご馳走様でした。」皆さんの家庭では、おとうさんは上座で食事をされますか。おとうさんに一品多く付けられていますか。おとうさんは、一番風呂ですか。おかあさんは、家の中で演出します。家の中では、ある程度の秩序が必要です。最近この変が非常にあいまいになり、その結果変な問題が発生しているように思います。少年よ大志をいだけで育ちましたが。現実は、おとうさんは、最後に入って風呂を洗ってというところも多いようです。これではいけません。一定の秩序が必要です。何でも話し合える家族が必要です。
◆外国の老人ホームを見てきました。外国は老人ホームのなかに美容室がついています。皆さん着飾っています。ホームの生活を楽しんでおられるようでした。青森の老人ホームを見て回りました。青森には老人ホームのなかに美容室は、ありませんでした。誰もが美しく着飾って入たいというのが人間の姿です。子供が一番嬉しいのは,お母さんが美しいことです。生活はほんの小さい心がけできます。あいさつすることが大事です。心を開く。相手に寄りそう。心が閉じるとJCO事故が起きます。JCO事故では、会社に100%の責任があります。国に25%、県に25%、住民に25%、反対派に25%の責任があります。200%の責任のなかでおこなわれているわけです。事故が起きるのは、話し合いが十分なされていないんです。誰かがやってくれると思っているのは大きな間違いです。
ゲーテの話  私はよく例にひくんですが、ゲーテがワイマールの市長になった時の就任の挨拶です。「市民のみなさん、毎朝5分間ずつ自分の家の前を掃除しようではありませんか。そうしたら私たちの町は、私達の国は、どんなに美しくなることでしょうか。」これだけです。あそこの奥さんは毎朝自分のうちの前を掃除している。
だけどもあそこの前の道路はデコボコで、あの奥さんに気の毒だからあの前の道路をなおしてあげよう。これが民主主義です。民主主義というのは本来思いやりのある社会体制です。そのためにはまず、奥さんが自分のうちの前を毎朝そうじするという努力が必要なんですね。ところが今、日本人は掃除も何にもしないでうちの前の道路が悪いからなおせと要求する。要求する前に、努力するのが民主主義です。ひとりひとりが、努力するのが大事なんです。誰かがやってくれるわけではないんです。「おはようございます。」「ありがとうございます。」美しい言葉です。
施設の少女  戦争中、どうせ戦場で死ぬのなら、それまで静かなところで本を読んでおきたいと、高校は青森県の旧制弘前高校を選びました。しかもその直前、昭和20年の東京大空襲でわが家は焼けてしまい、傷心を抱いて陸奥へ旅立ちました。ある時、戦争で親を失った子どもたちの施設に奉仕活動に行きました。当時18才でした。そこで、ことばを持たない12〜13歳ぐらいの女の子が朝から晩まで施設の子の洗濯物を一手に引き受けて洗っていました。当時は戦争の後で何もないときです。お礼は、「ありがとう」のことばだけです。「ありがとう」というと、ちょっとだけ女の子がほほえむんです。朝から晩まで。その子の姿を見て、私は少女から人間の生きがいは、「これでいいのかという反省に基づく向上心」「自分以外の人に何をしてあげることができるのかという奉仕する心」、この二つであることを教わりました。私はその子に何かでお礼をしたい一心で、冷えきった手をわきの下にはさんで温めてやりました。津軽の寒さの中で、あの子の手は心臓も凍るような冷たさでした。あの冷たさを50年たったいまも覚えています。のちにその子は、事故で短い生涯を終えました。その少女は洗濯をするという才能を他人のためにも分け与えて生き抜いたのです。いつか、あの子のように生きていきたい。これが私の本当の姿でございます。
文化とは  私達が日本の文化というときに何も超高層ビルをいいません。超高層ビルは世界中どこにもあるわけです。文化というと歴史の風雪に耐えてきたものをいうわけです。わたしは、感動を形にするのが文化だと思っています。色々な事情で、私は定年というものを5年間も延ばさざるを得ませんでした。定年を5年も延ばしてもうこれで辞めようとおもいました。福祉、奉仕への志と、NHK退職後は自然の中で生活したいという思いから、昭和63年に熊本県に参りました。「地方行政は1軒1軒の家に文化や福祉を出前すること」と考え、2度にわたり熊本県下98市町村を歩きました。
過疎の現実とあきらめが充満   私は、過疎の現実に驚きました。98市町村に子供がいないんです。私は熊本の田んぼの畦道に立って、自分は日本を知らなかったと思いました。それまで社会全般を扱う放送の中で36年間も働いていました。しかし、私は地方の過疎がこれほどまで深刻に政治と行政の無為無策によってもたらされていたのを知らなかったのです。私は今でも後悔しております。先程申しましたように、ありとあらゆる番組をつくって参りました。農業番組もやりました。
しかし、過疎を扱った番組を1度も作ったことがない。しかし農村へ行きましたら、漁村へ行きましたら、山村へ行きましたら、現実にそこにおかれているのは過疎でございました。その一方、この過疎の中で何をやっても過疎だからだめなんだといってあきらめが充満しているということも、歩いて知りました。自分で自立しようという気持ちが全く無いんです。自分から何かをしよう、まず自分が努力してみよう。民主主義の基本的な原則は何かというと、要求するまえに努力せよということです。
お神楽の復興  この消え行く日本の心というものを復活させることが、文化としての大きな仕事として存在するのではないかと考えました。熊本県には、徹夜で20時間もかかるお神楽があります。かつてはそれを多くの人がやっていたわけです。それが今、人が少ししかいないため、ほんの4、5座しかできないんです。20時間のうち、2時間くらいしかできないわけです。だから、なんとかこれをご先祖様のように元に戻そうじゃないか。そういいましてもやる気がありませんから「先生、そぎゃんこつば言よんなはるばってんが。」とくるわけです。そして、2番目には「あざゃんして、こぎゃんしたら、どぎゃんすっとかね。」となるわけです。「あざゃん、こぎゃん、そぎゃん、どぎゃんってのは熊本弁の四段活用ですか。」って言ってきました。これ言ってる間はだめなんです。
文化振興基金  しかしご先祖様のように元に戻そうと思ってもお金がありません。そこで、勝手に熊本県立文化振興基金という制度をつくりました。基金というのはいろんなところからお金が出てその利子を運営しますが、私一銭もありません。そこで、熊本県内で講演なら講演でよばれますと、講演を無報酬にし、代わりに基金に寄付してもらいました。基金は9年間で3億2,000万円に達しました。その基金で、「岩戸神楽三十三座」など絶滅寸前の伝承芸能を復元しました。
徹夜の神楽  三十三座を、1年半かけて元に戻しました。そして平成2年、私は世界で初めてだろうと思いますが、文化会館を徹夜で公開しました。大体、会館は10時頃には終わってしまうわけです。それを徹夜で公開しました。なんと、日本中から8,000人のお客さんが来ました。6,000人が徹夜しました。三十三座の間5分間ずつ間をおきまして、この5分間に私は解説を担当しました。延べ2時間45分の解説を担当しました。そして最後の幕が降りました。そしたら、お客様が全部舞台の上へかけあがってきました。舞いを舞った15人、それから上の衣装はお金で作りましたが、下の襦袢は村の奥さんが手縫いでやりました。当日村の奥さんに、全部来てもらいました。激しい踊りですから、全身ぐっしょり汗になって下りて参ります。それを脱がせて洗って乾燥機で乾かしてまた着せて送りだす。これを村の奥さんたちがやってくれました。私は奥さんたちも全部舞台に出なさいと押し出しました。そしてお客さん達とだれかれの区別無く皆抱き合って感動の涙を流しました。私はその光景を見て、こういう感動を形にするのが文化なんだ。そしてその感動を生むのが文化会館の仕事なんだ。しかもそれを感動のまま終わらせてはいけないんだ。それを何らかの形にしないといけない。文化は、あるいは心というものは形にしないとわかりませんから、それを形にしなければならないんだと思いました。その後、この村にやがて1万坪の神楽苑という公園ができ上がりました。その設計にも携わらしてもらいました。そして、ここに舞台を作りました。この舞台で神楽のフェスティバルをやります。そうすると山また山の村です。ここに1日3万人のお客さんが来るようになりました。最初これを作った時に3,000万円の赤字を出しました。申し訳ないと思いました。わずか1,600人しかいない村です。そこに3,000万円の赤字を出すような施設を私は一緒になって作ってしまったわけです。申し訳ないと思いましたが、今、1億2千万円の黒字なんです。これが後にオウムが入ってまいりました波野村です。波野村はオウムから土地を取り戻すため9億円のお金を払いました。波野の人たちは、村を守るため一致団結して、彼らと直接ぶつかりました。みんなで団結してとうとうオウムを追い払いました。後でサティアンに入っておりましたら、あの毒ガスを作っておりました。波野が、村民が一体となってオウムと戦わなかったらこの波野村が上九一色になっていたでしょう。波野村の人たちは今でも言うんです。「あのオウムが入る半年前に、村が心を一つにしておいたから、オウムを撃退できたんだ」と。今でもそういうんです。心を一つにするということがどんなに素晴らしいかということです。努力です。この人たちの努力です。
「こころコンサート」  「こころコンサート」というコンサートをやりました。障害者は何かひとつは素晴らしいものを持っています。一生懸命生きています。この人たちこそ人間の光なんです。」障害者を外に出すことは大変です。本人の説得。親の説得。親戚の説得が必要です。コンサートには、正直に言って8千万円近いお金がかかります。何故これをやるかというと、日本では、健常者と障害者が日常生活の中で触れ合う機会がほとんどないんですね。私は、18才の時にひとりの知的ハンデを背負った女の子と触れ合ってから、折にふれてハンデをもつ人と接して参りました。かなりの重度の方でも音楽が鳴ると身体のどこかを動かす意思があるんだということを知りました。健常者と障害者をつなぐのは音楽かなと思っておりました。熊本で村おこし、町おこしをやっておりました。すと、最初はいろいろ問題がありますが、だけど人間はやるとなったら最後までやるんだってことも知りました。私の長い間の念願は、私と別れてから1週間後に自動車事故で亡くなったあの子のために、歌を奏でてやりたいということです。そして同時に、健常者はもっと、障害者は一生懸命生きている人なんだということを知って欲しい。コンサートを開くまでには丸3年かかりました。あるところで、重複障害です。しかし右手の人指し指の先に感覚が残っておりました。この2人に色紙に「ド」なら「ド」って書いて、これは「ド」っというんだよ。そしてこのキーを押すんだよ。そこから始めて1年間練習しました。そして第1回のコンサートでこの2人でオルガンを2曲連弾しました。そのうしろで40人が素晴らしい合唱をしてくれました。人間不可能はないんです。人間は、誰しも素晴らしい才能をもっています。全然耳の聞こえない子供たちが4分間の和太鼓の曲が演奏出来るようになりました。音は床の振動からとります。両手両足を車イスに縛りつけないと真っすぐに座れない女性がおられました。胸の高さの台の上に置いたメロディアンのキーを舌で押して曲を演奏しました。
ハンドベルの演奏  ハンドベルの演奏もできるようになりました。先生のサインでリンリンとやるんですが、真ん中でリードした中学2年生のお嬢さん全盲なんです。このお嬢さんも机の上に並べられたハンドベルを見事にとって演奏しました。チーム60人が合唱するときにこの盲目のお嬢さんが両手でピアノ伴奏をしました。1年前ピアノに触ったこともないお嬢さんです。だけども1年間ボランティアに励まされて練習しました。60人の合唱を両手で伴奏ができるほど、人間はみんな素晴らしい才能を持っているんです。1回目のこころコンサートで、文化振興基金が一銭もなくなりまた。しかし、その後、県から予算を付けてもらい、第2回のこころコンサートも計画することができました。コンサートを終わったあと「来年もやるんですか。」っていうことを聞かれます。とにかくお金がかかるんで、私も働かなければなりませんし、事務局だってこまってしまうわけです。ですから私は「いつやれるかわからない。」「うーんとてもわからない。」という返事をしております。ほんとにできないんです。
最後に  あるとき、障害者の方に、「もし、1日だけ神様が両手、両足を下さったらどうしますか。」と聞いたことがあります。その人はこう言いました。「自分の足で大地を踏みしめて、世の中に生んでくれた母の墓参りをしてみたい。」怨んでもおかしくない母親の墓参りをしたいということばに考えるものがありました。美しく生きたいたいとおもいます。意味無く生きている人はいないんです。24年間お化粧をしたことがなかった障害者の女性が「お化粧をしたい」と無理に母親にお願いしました。母親は「どうせやってもしょうがない」といいました。しかし、その女性のどうしてもという願いで、母親は障害者の娘にお化粧をしたそうです。そしたら、しばらくしてその母親は思わず床にひれ伏し大泣きしたそうです。「この娘は、こんなに美しかったのか・・・」人間、だれでも美しく生きたいたいとおもっています。東海村事故はありました。波野村では、オウムとのたたかいがありました。村民は心を一つにして戦い、勝利を得ました。その基本はむらのひとの努力なのです。東海村も1人1人の努力により良くしていかなければいけないとおもいます。以上講演会でとったメモにより作成しました。良く理解できなかったところもあり話され方や内容が若干実際のもの異なっています。鈴木さんの言葉は、大変丁寧でよどみなく話されておりました。