東海村中央公民館講座  親鸞 「常陸の親鸞と門弟」 2005/07他  講師 今井雅晴先生(筑波大学大学院教授)。
「『親鸞と東国門徒」(吉川弘文館.平成11年)他多数。浄土真宗の開祖親鸞。鎌倉時代の20年間、常陸に住んだ。布教活動を行うとともに、多くの門弟を育てた。
■ 07/02親鸞の念仏。7/16親鸞と常陸。09/03歎異抄とは。09/10門弟たち。09/17野外学習「寺々の訪問」。中央公民館 →那珂IC →(常磐高速) →水戸IC →(50号バイパス) →報佛寺→(50号バイパス)→西念寺→国道50-355号→笠間芸術の森公園→国道355号→唯信寺→西小塙石岡線→大覚寺→友部IC→(常磐高速)→ひたちなかIC→中央公民館
■親鸞について   親鸞の浄土真宗は、東本願寺、西本願寺。茨城県では、笠間、稲田、下妻、水海道が親鸞に関係がある。東海村では、願船寺が関係している。親鸞は、親鸞の時代では非常識だった、「妻帯」をおこなう。革新的な行動をとった。親鸞の肖像画「鏡御影(姿)」「安城御影」「熊皮の御影」がある。「身分の高い人の座る畳。眉毛が上がっている。口が小さい。外に出て教えを説く意味の草履と杖。が特徴。薬は嫌いだった。親鸞の妻「恵信尼」は、京都の貴族九条兼実の家老職、「家司(ケイシ)」三善為教(則)タメノリの娘。
■親鸞の生涯  1173年、京都に、下級貴族 従六位、上日野有範の長男として生まれる。9歳で出家得度、比叡山で学問と修行に励む。29歳の時、 迷いを離れる道を見いだすことができず、100日六角堂にこもる。聖徳太子のことばにより法然を訪ねる。法然の専修念仏に救いを求めた。相手の人格を認め 相手の考えに興味を持つ法然の人柄に好かれ その後考えを教わった。法然より「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えをもらう。法然に弟子入り。1207年、承元の法難により、法然は土佐に流罪、親鸞35歳は越後流罪。恵信尼公と結婚し、民衆の中にあって念仏の教えをひろめる。結婚した年は謎。42歳のとき、越後から関東に移る。後には家族を伴って関東に移り、人びとと生活をともにする。約20年間、本願を信じお念仏を申す生活を関東 稲田を中心に 人びととともに送る。60歳を過ぎてから、京都へ戻る。このころ、『教行信証』を完成させた。1262年、京都でなくなる。2011年、親鸞の750年忌回忌。
■親鸞の念仏
「報謝の念仏」
 「あらゆる人びとが、阿弥陀如来の本願力によって、往生成仏し、この世に還って迷えるものを救うためにはたらくという教え。」
「南無阿弥陀仏」ととなえ、報恩感謝の思いから、如来の徳を讃える日を過ごさせていただく。毎日の生活を不平・不満で過ごすのは空しい。
私たちを生かしてくださる阿弥陀如来に感謝すれば、目の前に明るい世界が開けてくる。
私たちのまわりの人たちがいかに私を助けてくれているかにも気がつく。
その人たちへの感謝の気持も起きてくる。
感謝の気持が生まれれば、それに対するご恩返しの気持が生まれる。
人びとは阿弥陀如来へのご恩返しを思い、そのことを教えてくださった親鸞へのご恩返しを願った。
■真宗本廟の歴史   1262年 親鸞は、京都・大谷の地に埋葬される。親鸞の娘・覚信尼と門弟により御真影が安置する廟堂が建てられる。覚如が、廟堂を「本願寺」と呼ぶ。後本願寺は、天台宗の影響を受けるようになる。1457年 蓮如は、天台宗の影響を払拭し、親鸞の教えによる本願寺を再興する。各勢力との軋轢が生じ、蓮如は、大谷から近江、越前、河内など、居を移す。その後蓮如は京都・山科で本願寺を再興する。1532年、法華宗徒により山科本願寺は焼け落ちる。
証如は摂津へ逃れ、大坂を本山とする。顕如の時、織田信長との間に「石山合戦」。1580年、和睦。大坂の地を信長に明け渡す。信長没後、大坂・天満を経て京都・堀川に本願寺は移る。教如が跡を継ぐが、秀吉の裁定で弟の准如に譲る。1602年、教如は徳川家康から烏丸六条の土地を寄進される。本願寺を別立、教団も二分された。(東西分派)。
笠間芸術の森公園 昼食(自由行動)