石神城2
石神城 いしがみじょう  2008/08/11他 茨城県那珂郡東海村石神内宿1258他

石神城は、東側が久慈川の蛇行部分が城下を流れ、南北を谷に囲まれた舌状台地の東端にあり、比高差は15m。内郭  内宿留 現在釣りが出来る池となっている。石神城のあったときも水がせき止められ敵の侵略を防ぐ役割をはたしていた。

内宿留より石上城をみる。土塁がわかる。

V郭よりU郭をみる。

V郭よりU郭に通じる土橋。当時は、木橋だったらしい。門も有り、敵が攻めてきたら木橋を壊し戦ったのだろう。

U郭よりV郭をみる。

U郭とT郭の間の土塁と掘。人が余り来ないためか、昔の面影が感じられる。特にT郭は夏草で荒れている。ドグダミが一面に育ち、匂いが強力だった。マムシとか蚊もいる雰囲気。見学されるときは注意必要。

T郭(遠見城) 久慈川の断崖に面した奥まった位置にあり、東西長さ3m、南北長さ95mの細長い郭である。北の崖は高さ15m、標高は18.3mある。U郭との間に空堀があり、南・北土塁の中間に虎口(出入りロ)がある。土塁が御城に対してあることにより、遠見城の方が優位な郭となりI郭は本丸に相当するとの説もある。東側の曲輪面が欠けているが、久慈川の侵食によるものか、もともとなかったのか断定できない。

U郭(御城、実城 みじょう)東西100m、南北125mの広い郭で、周囲を堀で囲まれ、西側が狭い台形をしている。西側に出入り口があり食い違い虎口に門がつくられていた。ここからV郭に土橋があるがこれは江戸時代につくられたもので、もとは木橋があったようである。この郭には多くの竪穴建物群があるが、中央部にひときわ大きく長大な竪穴建物がある。これを主殿とする説と、戦時の集会所兼倉庫とする説と評価が分かれている。

V郭 内郭部分の西端に位置した曲輪である。南北148m、東西90mで、西側が広い台形をしている。実城側には土塁はないが他の三方には土塁があり、実城より下位の曲輪であった。郭内には多数の土抗と井戸を検出している。

外郭 W郭(北郭) 内郭の北の台地にある南北150m、東西200mの長方形の平地で堀は巡らしてない。    V郭の西側に東西460m、南北430mの外郭が広がっている。かつて西側には南北900mの土塁、130mの堀が台地を横切っていた。小字西表には大手門があったと考えられ、その南に西木戸という地名がある。V郭内は整然と区切られ、中央を南北に通る街道に沿って上宿、中宿、下宿という小字がある。ここに家臣団の屋敷地があったと考えられている。
広報東海 真壁町歴史民族資料館  H先生による「石神城跡」の紹介 (広報東海12月25日号より) 石神城跡は、東海駅から北へ約2kmにある。1602年佐竹義宣の秋田移封に従った、「城主石神小野崎氏の城跡」。城跡は、那珂台地から北東に延びる比高差約17mの舌状台地上にある。範囲は、北側崖下を流れる久慈川と、その支谷によって区切られた。東西680m・南北430m。城跡全体は、5か所の郭に分かれる。各郭の周囲は薬研掘(やげんほり)・土塁によって区切られる。郭の縄張りは、I郭(遠見城(とうみじょう))・U郭(御城(みじょう))・V郭(二の丸)、西側にW郭・X郭がある。多くの遺構・遺物が郭内でみつかる。遺構は、大規模な土塁・薬研掘・土橋・橋脚・門・塀・建物・井戸・溝・道・井戸を伴う施設・倉庫など。13世紀から17世紀初頭までに構築された。遺物は、総数で635点。全郭ともに、陶磁器類が多く、その他 在地製かわらけ・内耳土鍋がある。金属製品・石製品もある。発掘調査はトレンチ調査を中心としたため、石神城に関する研究はまだ始まったばかり。
郷土再発見講座 古蹟「石神城」探訪  2000/08/11  講師は、T(東海高等学校教諭)さんとH(真壁町歴史民俗資料館)さん。石神小野崎氏と石神城についてT先生より話がある。次に、石神城の構造と真壁城の発掘調査の様子についてH先生より話がある。城の見学は、城の攻め方を考えながら見てまわると面白い。城は、現在の役場のような存在でも有った。戦のときは、住民の避難場所でもあった。H先生は、真壁城の発掘調査をしている。「天守閣もない、石垣もない中世の城をどのように保存していけばよいのか良い方法がないか?」昔のままの状態にしておくのが良いのか、それとも建物を建てて見て楽しんでもらうようにしたほうが良いのか? 古蹟「石神城」探訪を参加者約50名全員歩いて行う。暑くて大変。探訪コース 「コミュニテイセンター→内宿溜→長松院→土塁跡→石神城内郭→石神城外郭→観音寺跡→コミュニテイセンター」 
当日の配布資料から  中世城郭を見るために必要な用語集 中世城郭基本部位解説図

縄張り(なわばり) 城の設計のこと。構造、特に平面プランのこと。   自然地形(しぜんちけい) 曲輪内部や曲輪と曲輪の間に残された、人手の加えられていない部分。その有無や大小は、しばしば曲輪の便用状況や城じたいの性格を考える手掛りになる。   尾根続き(おねつづき) 山地の城郭で、城外の尾根が続いて行く方面。台地の場合は台地続き。敵の攻撃を受け易いため、堀切を設けることが多い。  台地べり(だいちべり) 築城に適した場所。  本丸(ほんまる) 近世城郭で城の中心となる曲輪のこと。以下、二の九、三の丸などがある。  これらの言葉は、中世にはあまり用いられていない。  大手・追手(おおて) 城の正面。反対は搦手。 曲輪(くるわ) 郭ともいう。城壁や掘、自然の岸や川などで仕切られた一単位の区域。  帯曲輪(おびぐるわ) 
曲輪の外周を廻る堀の、さらに外側に設けた、帯状に細長く連なる曲輪。 単に帯状に細長く連なる腰曲輪をさすこともある。  腰曲輪(こしぐるわ) 地形の高低差を利用して、曲輪の外側のより低い所に、階段状に設けた曲輪。  虎口(こぐち) 城の出入口。攻防戦の焦点になり易い場所。 城全体における虎口の配置、および個々の虎口の構造は、築城年代や築城者の系統を推測する手掛りになる。坂になったものが坂虎口。馬出し(うまだし) 虎口の前面の防禦強化のため設ける曲輪で、城兵の出撃拠点ともなる。前面に土塁を築き、周囲に堀を廻らせ、城内側と城外側にそれぞれ橋を架けて通路とする。原則として橋は直線的には架けない。半円形の丸馬出し、方形の角馬出し、およびそれらの変型に大別される。枡形(ますがた) 虎口の防禦強化のために設けられた方形の空間。またその空間を形成する施設。虎口の脇から内側へ、鍵の手状の土塁を延ばして作ったものと、虎口の内側を掘りくぼめて作ったものがある。原則として、虎口を通って枡形に入り、鍵の手に折れて曲輪の中心に入る形で通路をつける。虎口に第一の門、鍵の手に析れたところに第二の門を設けることがある。以上は曲輪内に作った内桝形で、別に虎口外に鍵の手状の土塁を設けた外桝形もある。建物(たてもの) 中世城郭では、掘立柱、板葺き・藁茸き・榧櫃茸き屋根、板壁・土壁の平屋が普通。瓦茸き屋根や漆喰壁はあまり無いため火に弱い。櫓(やぐら) 矢倉ともいう。見張りや防禦強化のための建物。虎口の付近、曲輪の隅などの要所に建てる。四本の柱に踏み台を載せ、板や楯で固ったものや、普通の家に狭間(射撃用の小窓)をつけたものなどがある。門の上に渡したものを櫓門、城壁に沿って建てた細長いものを多聞櫓、二階建てのものを二階櫓という。櫓台(やぐらだい) 本来は櫓の土台の意味。ただし遺構に関しては、城壁のへりにある方形の盛り土、長い土塁の一部で方形に広くなっている場所など、防禦の拠点として椿を載せていたように見える場所を、実際に櫓があったか否かを問わず、櫓台と呼んでいる。
横矢(よこや) 側面射撃のこと。特に虎口に殺到する敵を側面から射撃する(横失をかける)ことは、防禦上重要。そのために虎口の脇に折り、櫓台などを作る工夫(横矢ががり)が中世後期に普及する。水の手(みずのて) 主要な水源。総構え(そうがまえ) 惣構えと城下町 (東海広報誌 ふるさと歴訪 京樂 真帆子より)石神小野崎氏の居城、石神城は石神内宿の台地上に築かれた。三方は崖で、守りの堅い城。弱点は台地の広がる西側。堀を掘ってその土を盛り上げ土塁とした。これを惣構えという。惣構えの中には、家臣団が住んでいた。これが、石神城の城下町。城下町の中には、太田・湊街道が取り込まれた。防御だけではなく、経済活動の便がはかられた。街道が台地上でほぼ直線道路になっていること。台地への登り口がかなり屈曲していることも不自然。これは、城下町をつくる際に計画的に道がつけられたことを示している。1888年の地籍図を見みると、この街道の西側で不完全ながら計画的な地割りがなされていた。領主による一元支配を実現する近世へと、石神城下町はなっていた。土塁は長松院のある台地にも築かれていた。これは、南からの侵略を防ぐライン。谷を越えて築かれた惣構え、これは、石神域下町が広大であったことを示す。城は、領主だけのものではなく、家臣団があってこその権力です。領主には、彼らの安全を守る義務がある。惣構えの中は、小野崎氏によって「平和」が保証されていた。1602年に佐竹氏の秋田転封に小野崎氏が従ったため、石神城は廃城となる。住民を守ってくれた惣構えの土塁は、ほとんどが破壊された。城の外周に廻らせた比較的長い防禦線。城下町を取り巻くこともある。総構えの堀を総堀ともいう。土塁(どるい)土の城壁。曲輪内を遮蔽し、その上にのって戦うために作られた土手。普通、土を盛り上げて作るが、二本の堀に挟まれた掘り残し部分も土塁と呼ばれることがある。縦(竪)土塁(たてどるい)敵が斜面を横に移動するのを妨ぐためや、遮蔽のため、斜面に縦に作った土塁。石垣(いしがき)石を積んで築いた城壁。一人で容易に運搬できる程度の石を簡単に積んだものが普通である。遺例は比較的少ない。堀(ほり)防禦のために掘った細長い窪み。堀切(ほりきり)尾根や台地を切断する形に掘られた堀、大きなものを大堀切という。畝縦堀(うねたてぼり)敵の登攀や展開や横移動を妨げるため、縦堀三本以上を近接させて掘ったものの仮称。連続縦堀などともいう。空堀(からぼり)水をたたえぬ堀  水堀(みずぼり)濠(ごう・みずばり)ともいう。水をたたえた堀。泥田もその一種。二重堀(にじゅうぼり)あまり間隔をあけずに平行して掘った二本の堀。間を土塁とすることがある。縦(竪)掘(たてぼり)敵が斜面を横に移動するのを妨ぐため、斜面に縦に掘った堀。堅穴(たてあな)敵が堀底を移動するのを妨ぐため、堀底に竪に掘った穴の板称。段差(だんさ)敵が堀底を移動するのを妨ぐため、堀底に作った段の仮称。障子堀(しょうじぼり)多数の堀障子のある堀。敵の堀底での移動を妨ぐため、堀底に作った土橋状のもの。敵に士橋として逆利用されぬよう、上幅を狭くし、かつ上面が堀のへりより著しく低くなるように作る。畝堀(うねぼり)幅の広い空堀の底に、狭い空堀を二本以上掘った堀。底にできた低い畝状の土手が、堀底での敵の活動を妨げる。空堀三本以上を近接させて掘ったものをいうこともある。堀底通(ほりぞこみち)空堀の底を利用した道。土橋(どばし)畦道のように土で作られた橋。木橋(きばし)木製の橋。喰道い(くいちがい)虎口を挟む堀や土塁の線を一直線にせぬこと。折り(おり)横矢をかけたり、敵の視界を妨げたりするために、城壁や堀につけた屈折。削り落し(けずりおとし)削ぎ落しともいう。緩斜面を削って急傾斜の城壁にすること。
石神小野崎氏と石神城   小野崎氏のはじめ  小野崎氏は平安時代に常陸北部に勢力をもつ。源義光の入部により支配権を譲り渡す。以後佐竹氏の家臣となる。南北朝期に、佐竹氏は足利方として活躍した。それに従い小野崎氏も各地を転戦した。小野崎氏の本領は佐都西郡小野・小野崎郷(常陸太田市)。1348年本拠を佐竹氏に本拠を明け渡すため、小野崎通胤は小野崎城から多賀郡友部の櫛形城(十王町)に移す。1370年山尾城(十王町)に移る。小野崎通胤には、3人の子があった。長男の通春は小野崎惣領家(山尾小野崎氏)となる。次男の通房は石神小野崎氏、三男の通業は額田小野崎氏となる。15世紀には佐竹惣領家と佐竹氏の一族である山人氏との争い、佐竹の乱があった。約100年間続く。石神城は山人方の居城となった。小野崎越前守(石神小野崎氏)ら佐竹義憲=鎌倉府方の攻撃により陥落。佐竹義憲の子、義俊が弟の実定により太田城から追放されると、有力国人の江戸氏や小野崎氏は実定を支える。小野崎越前守は石神城の対岸である滝河原(竹瓦)を与えられる。石神小野崎氏はこの時点で石神城に居城していた。実定の死後義俊は太田城に帰還し、小野崎越前守は白方郷を与えられる約束で義俊に服属。白方郷は大塚氏に与えられました。1485年山人氏と周辺豪族は佐竹惣領家(義俊の子義治)に対する攻勢を強めた。小野崎通綱(石神小野崎氏)は佐竹義治の身代わりとなり戦死。その子通老に石神・川井郷が恩賞として与えられた。佐竹義治の死後、当主の義舜は山人義藤・氏義父子に太田城から追放。江戸氏や小野崎三家はこれに便乗し佐竹領を押領する。佐竹義舜は岩城氏・茂木氏の支援を得て包囲網をつくる。山人氏と江戸・小野崎氏の間を分断しそれぞれと和睦を結ぶ。和睦はその後崩れ石神小野崎氏も白方・小野郷を押領。1504年佐竹義舜は山人氏を滅ぼし佐竹の乱を終息させ、支配を回復。1505年古河公方政氏・高基父子の争いに乗じて、江戸・小野崎氏は高基を支持して押領。義舜の死後、義篤が跡を継ぐと弟の義元が部垂の乱を起こす。1535年小野崎通長(石神氏)も石神城で反乱を起こし、義篤は小野崎篤通(額田氏)に鎮圧。佐竹義篤の死後若い義昭が当主となり北・東・南家の三家が惣領家の家政を分担。小野崎篤通(額田氏)と小野崎通長(石神氏)は所領の境界を巡って争う。1546年江戸忠通の調停にもかかわらず合戦となり、石神通長は敗北し「石神没落」。佐竹氏による和睦調停が行われ、佐竹氏に服属し戦功を立て帰城が認められる。1558年から3年にかけて石神外宿に石神三家は次々と3つの菩提寺を建立し石神城鎮守の住吉神社を移築。石神内宿の長松院、白方方面が戦場となり、かつ和睦により領地を失ったためと思われる。佐竹義昭は家中の統一を図ると、陸奥南郷や下野那須・芳賀郡に攻勢を掛ける。石神小野崎氏も大衆(地侍)や足軽を率いて参陣。豊臣秀吉が小田原攻めを行い天下統一を完成させると、佐竹義宣は直ちに臣従。水戸城の江戸氏や、額田城の額田小野崎氏を滅ぼし、常陸領国を統一。太閤検地により石神千代房(通広)には石神の内900石が与えられる。佐竹氏は関ヶ原の戦いの後、徳川家康により秋田に移封される。石神小野崎氏もそれに従い、石神城は廃城となる。

石神城の構造 石神城跡縄張図 

周辺の遺跡 長松院  墓碑と供養塔  石神小野崎氏の墓碑
 
本堂前庭には石神城合戦戦死者の供養塔がある。塔の下には大量の経石が埋められている。

長松院は曹洞宗、住吉山長松院吉祥寺という。1487年、領主小野崎越前守の保護により曹洞宗通幻派の雲渓道端を開山として始められた。雲渓道端は1470年、山能(山尾)城主小野崎朝適の保護により宮田村大雄院を開いた南極寿星の弟子である。

現在寺堀という小字があり、墓地内にかつて大きな堀がありこの区域も石神城の防衛を担っていた。墓地内には江戸時代に立てられた石神小野崎氏の墓碑があり、本堂前庭には石神城合戦戦死者の供養塔がある。塔の下には大量の経石が埋められている。本堂には石神小婦崎氏の位牌が安置されている。
観音寺跡

かつて石神内宿のV郭内に真言宗醍醐寺報恩院末寺の観音寺があった。この寺は石神内宿の荒神社の別当寺であった。幕末の天保改革で取り潰された。石神外宿 外宿は陸前浜街道に沿った商業地である。ここに石神城の鎮守である住吉神社が建立されたが、もとは住吉山長松院の近くにあったと思われる。この神社は内宿の鎮守となっており、外宿の鎮守は石神社となっている。願船寺は1214年、佐竹氏の保護により天台宗の慈慶坊甕範阿閻梨が開いた。尭堯は1219年、親鸞の弟子となり名を定信坊と改め、寺は浄土真宗となった。「寺社開基帳」には1559年、石神城主小野崎越前守の御台(夫人)の菩提を弔うため建立されたとある。寺の脇に寺の娘で城主の奥方を祀ったという別当山がある(別当山古墳)。
石神氏系図

額田氏系図