茨城県天心記念五浦美術館とその周辺(いばらきけんてんしんきねんいづらびじゅつかんとそのしゅうへん)  2011/12/04他 茨城県北茨城市大津町椿2083ほか







日本美術院研究所跡



黄門の井戸

岡倉天心の墓地

天心遺跡 六角堂・天心邸・長門門

星宮神社

五浦(いづら)岬公園

地震で六角堂は消えてしまった。



常磐自動車道 北茨城I.C.から約15分のところにある 1997年11月に開館。岡倉天心の業績を顕彰し、日本美術の作品や数々の資料を展示。
まわりが自然公園で、潮騒を聞きながら散策やスケッチが楽しめる環境。岡倉天心や横山大観らの書簡や写真、遺品を展示。天心記念室・所蔵品展や企画展、映像ギャラリー等。
岡倉天心(1862〜1913)はなにをした人か? ・日本の古い美術品(絵や仏像など)のよさを広め、守ろうとした   ・横山大観ら日本を代表する画家を育てた  ・日本など東洋の文化や美術を英語で世界に紹介した
天心は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認めた。美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残した。
活動には、近代日本画革新運動や古美術品の保存、東京美術学校の創設、日本美術院の創立。ボストン美術館中国・日本部長就任。
著作 「The Book of Tea (茶の本)」などで、東洋や日本の美術・文化を欧米に紹介。岡倉天心が、五浦に来たころは、汽車が通るようになったばかりだった。
上野駅から北茨城まで約6時間 今は特急電車で2時間くらい。五浦では、龍王丸という舟をつくって釣りをしたり、また六角堂で海をながめたり本を読んだりした。
五浦海岸の六角堂  「五浦」と書いて「いづら」と読む。五浦海岸は、約1kmに渡って岬と入り江が入り組む海岸線。海岸の高さ50メートルほどの絶壁に、波の浸食でできた洞穴が無数に点在。
岩礁で砕け散る白い波と、断がいの上を彩る松の緑が対照的。天心の墓や、「亜細亜は一なり」の碑などがある。
天心は、五浦の風景が気に入り、この地で過ごすようになった。六角堂は1905年 海に突き出た断崖の上に天心が建てた。天心は、太平洋を眺め波の音を聞きながら瞑想したという。
1906年に日本美術院の本拠を移し、横山大観や下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せ作画活動を行った。
ことばの説明 東京美術学校 天心とフェノロサが中心となって作った美術を教える学校。現在,東京芸術大学となる。
日本美術院 天心が中心となってつくった美術団体。ボストン美術館 アメリカのボストンにある美術館。日本や中国の優れた古い美術品がある。天心が集めた美術品もある。 
岡倉天心のあゆみ  1862年 0歳  横浜に生まれる。生家は、横浜で生糸貿易を営んでいた。
当時の横浜は、外国の人が商売をしたり住んだりしていた 小さいころから英語を勉強した。1869年 7歳 ジェイムズ・バラの塾で英語を学ぶ
1875年 13歳 東京開成学校(現東京大学)に入学 政治学、経済学などを学ぶ。アメリカから来た外国人教師アーネスト・フェノロサに師事
フェノロサが東洋美術に関心を寄せたのに刺激され、フェノロサといっしょに、絵や仏像などの日本の古い美術品を見る。日本の古い美術品に関心を持ち日本美術研究に専念する。
1879年 17歳 結婚。1880年 18歳 東京大学を卒業、文部省に勤務。美術学校や博物館をつくる。
日本の古い美術品を調べ、日本の美術のすばらしさを多くの人々に伝えようとする。当時の日本は外国からめずらしい物がたくさん入り 日本の古い美術品の良さが忘れさられた。
フェノロサらと奈良・京都の古社寺を訪れ、法隆寺夢殿の秘仏救世観音像などの古美術の調査をおこなう。
1886年 24歳 欧米の美術視察にフェノ口サらと共に出張する。1889年 27歳 東京美術学校(現在の東京芸術大学)創立に奔走した天心は、同校の校長となる。
日本美術の伝統を踏まえた新しい日本画を創造するという独自の理想を展開。新しい日本の絵(日本画)をつくろうとした。横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山など多くの生徒たちが学んだ。
帝国博物館理事兼美術部長就任。1893年 31歳 美術調査ではじめて中国を旅行1896年 34歳 古社寺保存会委員になり、今日の文化財保護の礎をつくる。
1898年 36歳 東京美術学校長を退く。東京美術学校の大学院にあたる美術研究所の設立構想をもっていた。美術学校長を退いたことを契機に、日本美術院を創立。
日本美術院は、美術の研究、制作、展覧会の開催、機関誌の発打などを主な事業としていた。天心の指導を受けた大観ら青年画家たちは、日本画の革新に向けて研鑚に励む。
横山大観ら若い画家たちは研究して次々と作品を発表しましたがなかなか絵は売れなかった。1901年 39歳 インドに渡り、翌年にかけて仏跡を巡る。
天心は、インドの美術が中国や日本の美術に影響をあたえていること知る。インドや中国、日本など東洋の文化のすぱらしさを世界に伝えたいと思う
死ぬまで尊敬しあえる友人となるタゴールと出会う。天心の美術理念を実現するために、大観らは、日本画に西洋画の光と空気を導入する試みをおこなう。
しかしそれは朦朧体(もうろう)と称され、世間から激しい批判を浴びた。日本美術院は、経営困難に陥り、活動も衰退。
1902年 40歳 インドの詩聖タゴールと交流を深め 「the ldeals ofthe East (東洋の理想)』を執筆し、翌年ロンドンで刊行。
1903年 41歳 五浦に土地と家屋を求める。1904年 42歳 世界をかける・・・アメリカのボストン美術館中国・日本部顧問になる。
1年の半分をアメリカで、残りの半分を五浦で生活。美術館の仕事は、日本や中国の古い美術品を調べたり新しく美術品を品を集めたりすること。
世界のいろいろなところにでかける。 「The Awakening of Japan (日本の覚醒)』をニューヨークで刊行する。自筆の英文著作や溝演会、展覧会をとおして、日本や東洋の美術、文化を欧米に積極的に紹介。
1905年 43歳 五浦の別荘を新築し、六角堂を建てる。1906年 44歳 日本美術院の再起をはかるために天心は、日本美術院第一部(絵画)の茨城県五浦への移転
大観、観山、春草、木村武山の四人の作家たちは家族と共に五浦に移り住む  日本美術院の五浦時代の幕開け
天心の指導のもと、五浦の日本美術院研究所で切磋琢磨しながら制作に励んだ五浦の作家たち。美術展覧会等に出品、美術史に残る名作を生み出す
「The Book of Tea (茶の本)』をニューヨークで刊行する。横山大観たちは、生活に不自由なことが多い五浦に家族を連れて移り、新しい日本画に取り組んだ。
ここでかいた日本画は、展覧会で多くの人たちにみとめられ、今もすぐれた作品としてのこされている。1907年 45歳 仲秋観月の園遊会を五浦で開く。
1910年 48歳 ボストン美術館中国・日本部長になる。天心は、アメリカと日本を半年毎に往復し、国際的な活躍をみせた。アメリカでの天心は、ボストン美術館の仕事を精力的におこなう
五浦での生活は、釣りや読書三昧という静穏な日々を送っていた。釣りは、自ら釣り船「龍王丸」を建造、釣り名人を同船させ技を習得した。
1912年 50歳 ボストン美術館の用務でアメリカヘ渡る途中、インドに立寄り、バネルジー夫人と出会う。親交は、天心が没するまでの約1年間続いた。
1913年 51歳 オペラ台本「The White Fox(白狐)を書く。病気療養のためアメリカより帰国。病状が悪化し世を去った。1914年 大観・観山らにより日本美術院が再興。