弘道館(こうどうかん) 2006/3/11  2011/02/09  茨城県水戸市三の丸1丁目6番内
弘道館は、旧水戸藩の藩校です。「正門」「正庁」「至善堂」は国の重要文化財に指定されています。
水戸駅北口から歩いて、8分ほどのところにあります。
水戸藩 第2代藩主徳川光圀(義公、水戸黄門)は、藩士の教育のため、藩校の建設を計画しました。
しかし、大日本史編纂のため多忙で果せませんでした。
この遺志を水戸藩第9代藩主徳川斉昭(なりあき)(烈公)が継ぎ、天保12年(1841年)8月に弘道館を開館しました。
(偕楽園は天保13年に開園)
斉昭公は、藩主になると内外の困難を打開するために徹底的な藩政改革を行いました。
「優れた人材・真の日本人を育成しなければならない」という考えで、弘道館は作られました。
幕府や、諸藩の学校とは違った構想で建設されたようです。
弘道館は、水戸城三の丸にあり、敷地の総面積は約17.8ha( 2万m2)あったそうです。
正庁を中心に、右に文館、左に武館を配していた。
天文・数学・地図等の館と、養牛場 薬草園を持つ医学館などが立ち並び、総合大学ようであったといわれています。
敷地西側の大半は武術調練場と馬場で、中央にある広場の梅林の中に鹿島神社と孔子廟が祀られていたそうです。
規模・学科内容ともに当時では我国一であったといわれます。
15代将軍慶喜(幼名七郎麻呂)公は、11才で一橋家の養子となる迄は、ここで学んだ。

大政奉還後はこの弘道館内の至善堂で謹慎されました。
弘道館正門 (パンフレットより) 本瓦葺き四脚門。
一般の出入りは禁止、藩主来館、諸行事の時に開門された。門の左右に、瓦葺き白亜の土塀が連なる。
門柱、梁、扉に弾痕が見られる。明治元年に城方の勤王派と、弘道館にたてこもった佐幕派との銃撃戦のもの。

通用門  正門に向かって右手に通用門がある。

正庁  弘道館の中心建物。



大玄関には「弘道館」の扁額がある。
正面奥に大広間、その左方に三室あり、「正庁」といわれる。





奥の大室は正席で藩主出座するところ。





「弘道館記」の拓本大幅が掛かっている。大室(パンフレットより)



至善堂
本館の右奥にあり、本館と畳み廊下で結ばれている。入り側と濡れ縁をめぐらした四室から成る。
奥の一室は藩主の座所。他の三室は諸公子講学の場所。
明治維新の時、将軍職を辞し大政を奉還した徳川慶喜公が、恭順の意を表し謹慎した場所。

奥の一室の床に、要石歌碑の拓本の書が掲げられている。字の配置がちょっと変わっている。
要石(かなめいし)歌碑 行く末もふみたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要(かなめ)なりける





孔子廟 (パンフレットより)
文武周公の平天下治民の教えが、孔子によって中正を得、淳化し発展した。
その徳を弘道館では敬慕し、その教義を採り入れた。
廟を建て、孔子を祀って儒教の道徳、政教をとって肉とし衣服とした。
これによって水戸学の真姿を表現したのである。
弘道館の主義・精神と関わりの深い人
主義・精神
日本古来の倫理道を基本とし、これに中国に発した儒教の道徳を採用したもの。
水戸学と言われた。
教育目標
神儒一致(神道と儒学の調和) 忠孝一本(朝廷・幕府・親への忠誠) 文武不岐(学問と武道の両立)
学問と事業の一致(学問と実践)
入学年令と卒業
15歳で、40歳以上は任意で通学し、卒業は無かった。生涯学習といえます。
15歳以前はそれぞれ城下にある私塾、先生の所に通って、勉強した。
史書等の素読が出来るまでの学力を付けて、試験を受けて15歳で入った。
当時、職業は世襲であり、親の跡を継いで、その世代の代わりが40歳位だった。
したがって、40歳以上になれば役職に付き、「公務多忙に付き、登校は任意でよい。」
「ただし月に一、ニ度は弘道館に来て学問をし、体を鍛えなさい。」ということでしょうか。
徳川斉昭(1800〜1860)  
文政12(1829)年藩主に就任し,天保期に藩政改革を進めた。
過激な改革を嫌った幕府に隠居謹慎を命ぜられた。後に許されて幕政にも関与するようになった。
しかし、井伊直弼と対立し,安政の大獄で蟄居となった。井伊が桜田門外で斃れた半年後に急死。
なお,「最後の将軍」慶喜は7男。徳川斉昭(パンフレットより)
藤田東湖(1806〜1855)
父幽谷の代から水戸藩に仕えた儒学者。斉昭の側近として,藩政改革を推進した。
安政の江戸大地震で圧死。主著に「弘道館記述義」がある。
会沢正志斎(1782〜1862)
藤田幽谷の高弟で,斉昭の侍講も務めた儒学者。
藩政改革で活躍し,弘道館の教授頭取にも就任した。
主書「新論」は,全国の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。
青山拙斎(1776〜1843) 儒学者,名は延于(のぶゆき)。会沢正志斎とともに弘道館の教授頭取を務めた。
尊王攘夷 
義公の大日本史編纂から一貫して水戸藩は尊皇であった。烈公の時代は更にこれに攘夷が加わった。
水戸は尊皇攘夷思想を信奉した藩士(天狗党)が各藩の尊王攘夷派の中心的存在だった。
しかし、安政の大獄と幕府側の書生党との血みどろの抗争にて、明治維新に取り残されたらしい。
弘道館記(こうどうかんき) 八卦堂(パンフレットより)
弘道館記は、徳川斉昭が趣旨を藤田東湖に説明し草稿を作らせ,会沢正志斎,青山拙斎らが見て意見を述べた。
最後に斉昭が裁定した。寒水石に刻まれて,弘道館の八卦堂におさめられて建っている。
弘道館記の読み下し文(原文は、漢文)
弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾も離るべからざるものなり。
弘道の館は何の為に設くるや。恭しく惟みるに上古、神聖極を立て統を垂れたまひ、天地位し、万物育す。
其の六合に照臨し、寓内を統御したまふ所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり、
宝祚之を以て無窮、国体之を以て尊厳、蒼生之を以て安寧、蛮夷戎狄之を以て率服す。
而るに聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、人に取りて以て善を為すを楽しみたまふ。
乃ち西土唐虞三代の治教の若き、資りて以て皇猷を贊けたまふ。
是に於て斯の道兪大に兪明かにして、復尚ふるなし。
中世以降、異端邪説民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲学、此を舎てて彼に従ひ、
皇化陵夷し、禍乱相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久し。
我が東照宮、乱を撥め正に反し、王を尊び夷を攘ひ、允武允文、以て大平の基を開く。
吾が祖威公、実に封を東土に受け、夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊ぴ、武備を繕む。
義公継述し、嘗て感を夷斉に発し、更に儒教を崇び、倫を明かにし名を正し、以て国家に藩屏たり。爾来百数十年。
世々遺緒を承け、恩沢に沐浴し、以て今日に至る。則ち苟も臣子たるもの、豈斯の道を推弘し、
先徳を発揚する所以を思はざるべけんや。
此れ則ち館の為に設けらるる所以なり。
抑々夫の建御雷神を祀るは何ぞ。其の天功を草昧に亮け、威霊を茲の土に留めたまへるを以て、
其の始を原ね、其の本に報い、民をして斯の道のよりて来る所を知らしめんと欲するなり。
其の孔子の廟を営むは何ぞ。唐虞三代の道此に折哀するを以て、其の徳を欽ひ、其の教を資り、
人をして斯の道の益々大いに且つ明かなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲するなり。
嗚呼我が国中の士民、夙夜解らず、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へを資り、
忠孝二なく、文武岐れず、学問事業其の効を殊にせず、神を敬ひ儒を崇び、偏党あるなく、
衆思を集め、群力を宣ベ、以て国家無窮の恩に報いなば、則ち豈徒に祖宗の志墜ちざるのみならんや、
神皇在天の霊も亦将に降鑒したまはんとす。
斯の館を設けて、以て其の治教を統ぶるものは誰ぞ、権中納言従三位源朝臣斉昭なり。
天保九年歳戊戊に次る春三月、斉昭撰文、並びに書及篆額(原漢文)
意味 
弘道と何か。人は道を弘める能力をもっている。道が自然に弘まるのではない。
道を弘める能力を持ち、道を弘める責任のあるのは、人に外ならない。
「道」とは何か。自然界の秩序を立てているものが道です。自然界の大きな秩序が即ち道です。
生きている人間が、しばらくも離れてはならないものです。弘道館は、如何なる目的の為に創られたか。
恭しく考えると、古くは、天照大神様、やがて神武天皇、神々の力により、この秩序の根本が立った。
極を立てば、最高の位を決めた。
天皇の位に即き、天皇を以て秩序の根本、本源とし、その後、その御血統がこれをお嗣ぎになった。
それにより、自然の秩序は立ち、全ての物がその中に成育して、繁栄した。
六合は天地と四方、東西甫北の四方に天地を加えて六つ、寓内と国は同じ。
天皇が世の中を照らし、世の中を統御され、その拠り所は、必ずこの道によって、日本の政治は行われて来た。
天皇の位は之を以て無窮に続き、日本の国体は、国柄は之を以て尊厳である。
人民は之を以て安寧な生活を送ることが出来、南の方を蛮、東にある異民族を東夷、夷といい、
西にある異民族を戎、西戎、北にある異民族を狄、北狄という。
四方の片隅に住んでいる異民族は、この道があるので、日本に従う。日本の国ができた時、既に道は立った。
御歴代の天皇は、日本の道さえあれば、神武天皇の道で十分であるとは考えず、
外国から善いものがあれば、それを取リいれる。
西土はシナ、唐は奏舜の尭、尭は初め、唐の殿様だった、虞は舜、三代は夏、殷、周、
その奏、舜、夏、殷、周の教えは、これを元手として、それを採用して、資料、資材として、
日本の文化を発展させ、道義を開明し、天皇の大いなる謀を賛けた。
もうこれ以上加えることは出来ない程に、素晴らしいものに発展した。
わが国では、中世より、邪道、間違った説が、民を誣ひ世を惑わす。
下らない、間違った学者共が、俗儒曲学、日本の道を捨て、そういう異端邪説に従い、天皇の教えが衰えてくる。
大道が世に明らかでない時は、よく考えると、随分、年久しい。
徳川家康公は、乱を治め、正に反して、皇室を尊ぴ、外国の間違った考えを打ち攘って、
文武二つの徳を発揮されて、太平の基を開かれた。
頼房公が、徳川家康公のお子様として、常陸に封ぜられて、早くより、日本武尊命の人となりを慕って、
神道を尊び、武備を繕められた。
義公はそれを受け継いだ。
夷斉は伯夷叔斉、殷が周によって滅ぼされる時に、いかに悪逆な人であっても、主人は主人、
この方に背くことは出来ないと、周の武王を諌めた人、義公は、その夷斉の態度に感激し、
さらに儒教を崇んで、人倫を明らかにした。
親は親としての名、子は子としての名に恥じない徳を治めねばならない。
君は君でなければならない。臣は臣でなければならない。
塀、屋敷に於いて、垣や塀があるように、国家の垣根、塀となってきた。
以来百数十年。世々遺緒を承け、恩沢に浸り、湯浴みするように、その御恩に浸り、お蔭を蒙り、今日に至った。
水戸藩に於いては、その恩沢を受けた者は、益々この道を推し広め、先祖の徳を発揚しなれけばならない。
これが、弘道館の設けられた目的です。弘道館の一隅に、健御雷神を祀ってあるのはなぜか。
鹿島の祠があり、鹿島の神を祀ってある。これはどういう意味か。
これは日本の、この国を肇められました時に、神様の功績をまだ国が未開の時に、
これをお亮けになり、その御霊を、この土、常陸にお留めになったので、
その由緒をたずね、日本の道があきらかになったのは、天皇の御威光の前に、我々は謹まなければならない。
これは教えたのは、健御雷神である。もし、御上の御命令に従わない者があれば、
この神はそれを討伐したということを知らせたい。
弘道館の中に孔子の廟があるが、これはどういう意味か。
これは尭、舜、夏、殷、周の道が、シナ古代の道がここに折衷する。孔子が、シナ古代の道の中で、
極端な所を捨てて、その中性な所を集め、それに統一された。
その孔子の徳を敬い、その教えを採用して、孔子によってシナの教えが集大成せられ、
その中正なところに落ちついた。
これは偶然では無い。孔子のお蔭ということを知らせたい。
今水戸藩に於いて、水戸の士民が、朝から晩まで精神を集中して、この学校に出入して、
神国日本の道を根本に奉じて、そしてシナの学問もこれを採り入れて、忠孝二なく、
文と武が二つに岐れてはいけない。
学者は学者、事業は事業、とはならないで、学問と事業とが、一つの精神で貫かれる。
その働きを異にしないで、偏った党派心を懐かないで、皆の考えを集め、全ての人の力を伸ばす。
水戸藩の先祖である威公や、義公の志は墜ちないばかりではない。
神武天皇を始め奉って、御歴代天皇、天にまします御霊も、又これを良しとされる。
この学校を設立して、そしてその学長となり、これを統率しているのは誰か。
全責任をもつものは権中納言従三位源朝臣斉昭なり。
天保九年歳戊戊に次る春三月斉昭公、文を作り、並びに書し、これを自分でお書きになり、
さらに又上に篆額を書かれた。
(安見隆雄氏による平泉澄博士の、講義記録を参考にしました。)