新宿はその名のとうり江戸時代中期より甲州街道の宿場町としてはじまった。現在はJR6線、私鉄3線、地下鉄3線が乗り入れ、日本を代表するターミナルである。まさに、人の流れが人を呼び寄せ、呼び寄せられた人が人を呼ぶといった図式で発展してきた。

 それゆえ、新宿の発展は常にどこか宿場町特有の歓楽街の部分を内包しながらつづいてきた。昭和40年代になるとヒッピー文化・当時の学生運動の盛り上がりによる機動隊との衝突・反戦フォークソングを歌う「東京フォークゲリラ」などと若者カウンターカルチャーのメッカとして注目されるようになった。

 西口一帯の新都心地区の開発は淀橋浄水場跡地を中心に副都心計画として昭和30年代から始まり、昭和46年(1971年)の京王プラザホテルの出現以来、住友ビル、KDDビル、三井ビル…と見上げるような高層ビルの建設がつづき、平成3年(1991年)東京都庁が新宿に移転し、新宿副都心は新宿新都心と呼ばれるようになった。
 それと同時に、それまでの新宿の持つていた混沌とした創造のエネルギーまでもが整地されてしまったような気がしてならない。

 都庁移転にともない新宿駅から新都心への地下通路は美観整備の名目でホームレスの人たちを閉め出す為のブロックか築かれ、動く歩道が作られた。ホームレスの人たちは追い立てられるように新宿中央公園に移動させられた。
 皮肉な事に、そこから見る都庁が青空をバックに一番映える場所である。


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