母校創立100周年に


   ◆ 我が懐郷 ◆      第58期 内藤 国樹


 高校を卒業して37年も経ってしまった。時がたつのは早いものである。竹馬の友の永川祐三君から、「同期会に出席しろ!」と無理矢理の誘いがあったのは40才の半ばも過ぎた頃であったろうか。故郷から遠く離れた東北の地方都市で生活するうちに、自分の心の中で、青春を共に過ごした仲間への想いが薄れかけていた時期であった。 仕事のやりくりをして出かけてみると、「禿・デブ・白髪」のオンパレードで、姿、格好からだけでは誰が誰だか分かったものではない。もちろん、これは男性のことであるが・・・。

 定番として仲間たちの会話は、まず「オマエ、ダァ−ダ?」の連続で始まる。米子弁はドイツ語の発音の『アーウームラウト』だと言った奴がいたが、本当にダァーの文字だけではうまく表現できない難物だ!。 「ダァ−ダ?」の儀式が一応終わると、後は和気合い合い。知らなかった友とも何の抵抗もなく話が弾む。どれも米子弁で、初めは片言でも、次第に流暢になるから不思議である。そして米子東の話となれば、楽しくないはずがない。例えば、応援団長だった金沢隆登君と、野球部主将の出島政明君の相次ぐ同期会初出席となれば、あの甲子園に話が集中するのは当然のことであった。

 幸い、我々の時代は野球部の黄金時代で、我々一般学生も放課後、例のコンクリートのスタンドでの応援練習にずいぶん鍛えられた。そのお陰もあって、いくども甲子園に行けたのだから、今となっては懐かしい。 当時、一年先輩にはあこがれの宮本洋二郎氏がいて、春の甲子園で準優勝した時は米子の街中が湧き上がったものだった。また我々の時も、矢滝伸高君の左腕の剛速球や、岡田明典君の目前でのホームランは、大歓喜の中での忘れることができないワンシーンである。修学旅行のなかった時代に、大都会の大阪までの夜汽車での旅は、まさに修学旅行のようなものであった。

 話が興に乗り、ちょっとしたきっかけから、忘れていた記憶がまるで映画のパノラマのように、鮮やかに蘇って来るから不思議である。あの青春時代を過ごした勝田ヶ丘の隅々までがスローモーションのように思い出され、故郷を懐かしむ気持ちがドンドン募ってくる。大山、皆生、米川土手、錦公園、城山、中海・・・・、賑やかだった土曜夜市、花火大会、勝田さんの祭り・・・、どれも百人百様の青春である。

 私事であるが、家内(なまった英語で有名な恩師F先生のお嬢さんで、とても美人です。国樹も通信簿を思い出すと、奥さんに頭が上がらんだろうな・・・友人よりの無断の注記)も米子東の出身であり、互いの両親も他界し、伯耆の国との接点が一つづつ少なくなってきた。一抹の寂しさも感じてきている。そこで、両親の故郷という伯耆の国、自分たちのルーツを伝えようと、家族揃っての米子旅行を思い立ったのである。 歩くほどにちょっとしたことから思い出が広がり、懐かし懐かしの連続である。大山に登れば、あの当時の姿がほとんどそっくりに残り、春の若葉、夏のキャンプ、秋の紅葉、冬のスキーと四季折々の記憶がよみがえる。

 母校の門をくぐれば、当時の姿は少なくなってはきているが、木造の校舎や板張りの廊下を歩く友人の姿が瞼に浮かび、胸にジーンとこみ上げてくるものがある。 錦公園の桜、中海のボート部の小屋、ゴズ釣り、城山のテニスコートなど、たちまち若き日の思い出が駆け巡るのは故郷を長らく離れた人間ゆえにであろう。 子供達もまた、自分達なりに両親の育ったところは、神話の故郷であることを身体で感じ、誇りに思ったようである。我が家のルーツは伯耆の国と家族中が納得した今、会社でも家でも堂々と米子弁を使い、東北弁とのアンバランスを楽しんでいる。

 故郷愛とは恐ろしいもので、伯耆の国の名産品が東北に負ける訳にはいかない。松山礼三君から届いた梨で戦いを挑み、同名の『天賞』という地酒があると聞けば、すぐに本家本元の福原(旧姓土井)照子さんに頼んで送ってもらった銘酒で勝負をする。もちろん、戦うまでもなく勝負は楽勝である。 家の庭では、ダイセンキャラボク、ダイセンキスミレ、ダイセンオダマキなど大山と名のつく植物を育て、家の中では菜の花畑の大山の写真を飾り、もうビョーキとしか言いようのないほど「故郷恋しや」を楽しんでいる。

 人間五十を超えると、同窓会オタクになるという。まったくその通りだ。東京の58期は年に2回の同期会を開催し、それも一回は20〜30人連れの一泊の旅行である。その間に幹事会と称して、ヒマな奴が2〜3ヶ月に一回はテニスや飲み会にと思い思いに集まっている。もう十年以上も続いているというからたいしたもんである。それに毎回遠く仙台から駆けつける小生も十分に同期会オタクと自認している。

  しかしながら、58期は同年代の他の期より物故者が多い。今年の1月にも、マリア園からずっと一緒だった高島陸郎君が急逝した。年末の同期会で故郷を語り合ったばかりだった。こよなく山陰を愛した彼は、伯州興産と社名を付けたほどだった。 同期のたくさんの仲間が駆けつけ、凱歌「松の緑」で人生を称え、応援歌「くろがねの力」と「北風荒き」で新たな門出に送り出した。悲しみの中ながら、応援団だった彼を囲むにふさわしい友の気持ちだった。隠岐を尋ねたがっていた陸郎君の霊に、木山征四郎君が句を捧げてくれた。

       松過ぎて 隠岐見えるらむ勝田ヶ丘

 最後に、故郷を遠く離れたものにとって、伯耆の国は愛しても愛し過ぎない永遠のシンボルである。この気持ちを木山君の句集から紹介して終わりとしたい。

       伯耆富士 ずいと見据えて故郷に入る

updated : 990410