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 『嫌な自分を脱ぎ捨てよう』 1999年3月5日



 自分が嫌いになる時がある。その事で深刻に落ち込む事が多い
 でも自分は自分から逃げられない。どんなに嫌っても自分は自分だ。嫌った所で何にも解決しない。

 他人が嫌いならその人に会わなければいい。どうしても顔を合わせなくては行けない相手でも不快になるような人間には極力会わなければ嫌な思いをしなくて済む。
 でも自分はそうはいかない。それこそ、そこから逃れたかったら死ぬしかない。
 いつだって鏡の前のに立つと奴は不機嫌そうな顔でこちらを見ている。そいつからはどうあがいても逃れられない。

 だけど、そいつは自分で制御できるのだ。馬鹿げた事を言うようだがそいつは自分である。嫌になるのは自分が嫌な人間になるように自分を制御してるからだ。
 その事に気がつけば、なんて事はない。

 好きになるように努力すればいい。変えていけばいい。
 自己嫌悪している暇があるのなら、好きな自分になるために何かを始めた方がいい。どうせ逃げられないなら、なんとかしなければいけない。

 嫌なままの自分を好きになれとは言わない。それでは自分に嘘をつくことになる。自分の虚像を愛してしまうナルシシストと同じだ。
 「こういう人が好き」というのがあなたの中にもあるだろう。無ければ憧れる人、尊敬する人の真似でもいい。努力しても損はないんじゃないだろうか?

 世の中そう上手くいかないって思うかもしれないが、嫌いな自分になってしまう要素なんていうのはけっこうつまらないものだったりする。「見栄」とか「世間体」ととか「惰性の人間関係」とかだ。そういうものをとにかく捨ててみる。 周りの人間がなんて言おうと自分の心に負い目になるような事はしない。自分で「ああ俺って嫌な奴だな」「こんな事をしてはいけないんじゃないだろうか?」「俺ってずるいな」とか少しでも思ったらそれを直す。

 「まっ、いいか。みんなやってる事だし・・」とか「俺だけさぼっても問題ないだろう」などと誤魔化してしまう前に「俺はまた自分の嫌いな人間になろうとしている」と思い止まる事だ。

 けっきょく、こんな”負い目”の積み重ねでどんどん自分が嫌になっていくのだと思う。それがある日、突然”事件”という形で現れる。さぼってるのがばれる。誰かを傷つけてしまう。誰かにそれを指摘される。すると誤魔化していた自分の嫌さ加減がどばっとあふれ出す。

 そうなってしまったらあとは落ち込んでしまうだけだ。そこで自分の責任にできればいいけど、そうはならない。他人のせいにして納得する。なにか逃げを作って本当の意味で反省しない。
 それで立ち直ったつもりになる。反省したつもりになる。そういう姿勢で立ち直るから、堂々巡りだ。

 好きな自分になる。その為に努力する。自分の気持ちに素直になる。いらないものは捨てる。
 その姿勢があれば少なくとも今より良くなるんじゃないんだろうか?自分を嫌な奴だと思っても、いつまでも嫌な奴じゃないんだって思える事が大切なんじゃないんだろうか?

 きつい言い方かもしれないけど自分を嫌ってる人間って、けっきょくは自分に甘えてる人だと思う。自分を変えるのには努力も勇気もいる。危険もつきまとう。孤立してしまうかもしれない。

 自己嫌悪している間はそんなきつい目にはあわなくて済む。嫌っていれば今まで通りで自分の気持ちを誤魔化せる。それを人に話せば優しくしてもらえる。同情してもらえる。
 嫌いな自分を認識するだけでは何も変わらない。いくらやっても落ち込み損だ。 彼らは”じゃぁどうするのか?”なんて考えない。考えても簡単には変われそうにないと分かると諦めてしまう。自分を嫌うことで誤魔化してしまう。
 でもいくら誤魔化しても自分は自分なんだ。逃げることが出来ない。だからまた同じ事をやってしまう。

 私は自分を嫌だなって思うことはたくさんある。でも、それで終わろうとは思っていない。少しずつでも変えていきたいと思う。きつい事かもしれないけどそういうものを正していきたい。

 嫌な奴がずっと側にいる人生なんて嫌気がさす。ずっとその嫌な人間から逃れられないと思うと未来に希望なんて持てない。生きる気力もなくなる訳だ。
 たった一度の人生、どうせなら気持ちよく生きたい。だから私たちは好きな自分になるために努力せねばならないと思う。