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 『自分と他人を比較しない原寸大の自分になる』 1998年10月18日



 学生時代、自分たちは成績というもので大人達に比較されることに嫌悪感を覚えた。社会人になった今でも上司とかに他人と比較される事はいい気持ちがしない。でも、ほんとうに他人と自分を比較しているのは自分ではないだろうか?

 知識、学歴、才能、容姿、趣味、嗜好など様々な部分で他人と比較して自分を判断する。それに左右される。比較対象は友達、恋人、家族、そして知らない他人だったりする。

 比較される事を嫌悪しつつも、自ら他人と自分を比較している。
 他人が自分の幸せの判断基準であって、そこに自分の姿はない。そんな人生は楽しいだろうか?

 他人の評価に縛られると行動が固まってしまう。
 失敗して笑われる事や失望されること、誤解を受ける事を非常に気にしだす。自分の行動を「他人はどう思うだろうか」「失敗して恥ずかしい目にあわないだろうか」というフィルターにかけてしまう。そして思い切った行動がとれない。
 仮に失敗や恥をかいてしまうとそれをいつまでも引きずってしまう。
 何をやっても勝ち負けだけにこだわってしまって、そのもの自体を楽しむということをしない。

 そういう部分から摩擦が生まれ、ストレスやあのどうしようもない人生の倦怠感が生まれるのではないだろうか?

 もう比較するのはやめたらどうだろう?
 他人と比較する事では自分の大きさは計れない。それは比較する対象によって基準が上下するからだ。”井の中の蛙”的に自分を過大評価してしまったり、実力があるのに周りのもっと実力のある人間に打ちのめされ過小評価してしまったりする。

 ではどうすればいいのか?
 自分の評価は自分で決める事だ。他人の考えを考慮にいれず、自分が今の自分に満足してるのなら誰になんと言われようとそれでいい。満足していないなら満足いくように動けばいい。変わればいい。
 確かに他人の評価が必要な時もあるが、それが判断の中心に来てはいけないと思う。

 百人いれば百人が自分の事を認めてくれる事はまずあり得ない。好きと言ってくれる人もいれば嫌いと言う人もいる。そんな曖昧なものを基準にしていいのだろうか?
 自分は自分、他人は他人ときちっとした線引きが出来るかどうかというのが大事じゃないのだろうか?他人がどう言おうと結果がどうなろうと自分は自分の満足いく行動をした。それでいいんだと思う。

 いまの世の中は何かと他人を評価したがる。他人を評価する事によって自分が偉いなんて錯覚を覚えてしまう。いいかげんな知識と教養を見せびらかして、人や製品や作品を身勝手な傲慢さで評価しだす。また、それを聞いたり読んだりした人間も同じ様な錯覚を覚えてしまう。

 だから肯定的な記事より否定的な記事の方が面白いのである。まぁ、評価したがるという点については別の機会で書くとして、私たちの生活の中に他人と比べるという行為が染み込み過ぎてはいないだろうか?

 他人と比較して優秀であったとしても、どこか納得がいかない不満を感じる事がある。他人と比較して自分を見誤る時がある。自分の正しさなんていうのは自分にしかわからないものじゃないのだろうか?本当の意味で自分を判断できるのは自分だけではないのだろうか?最近、私はそう思うことが多い。

 わたし自身、いままで他人の評価や価値観を絶対視するあまり、自分の追い求めるものを見失ってしまっていた。
 自分自身の好みや考えを押さえ込んでいたと思う。
 その事が、つかみどころのない苛立ちとなってわたしの心に暗い影を落としていたのかもしれない。

 今の世の中や環境に不安や不満を覚える人は多いと思う。かくいう私もその一人である。
 ただ、ひとつだけ気付いた事は、自分を変えていけなくては周りを変える事は出来ないという事。好きな自分、なりたい自分に変えて行かなくてはいつまで経ってもなにも変わらない。

 そして自分を好きになるには他人の評価などで自分を計らない事である。失敗しても精一杯やったんだからそれでいい。格好悪くてもやりたかったのならそれでいい。
 そう思う事が大切な事なのではないのだろうか?