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 『自分の人生を生きるということ』 1998年5月4日


 自分の人生はいままで外にありました。
 私は、物事を決めるとき、大切な決断を迫られたとき、趣味や考え方、自分の価値まで他人を基準に物事を決めていました。

 例えば、学生時代のクラブ活動。中学時代はバレー。高校時代はテニスと入部したのですが、自分は運動部より文化部のほうが性に合ってたと気が付いたのは大人になってからです。特に中学時代は兄がバレー部で中学、高校とやっていた事もあって自分もバレー部に入るのが当然だと思っていました。高校時代も勧誘されるままに入部してしまいました。

 両方とも半年も続きませんでした。特に中学時代なんかは別の選択肢なんて考えもしなかったし、高校時代も中学の時の失敗を生かせませんでした。
 高校時代、最後の一年間だけ私は自分の意志でコンピューターを扱う物理部に入部して楽しかった事がせめてもの救いでした。

 例えば音楽。友達に「俺、この歌手嫌いなんだ」とか「これを聴いていないと笑われるぞ」などと言われると、自分の好き嫌い関係なく周りに趣味を合わせていました。
 好きな娘が出来ても、周りに「あいつカワイイか?」「趣味悪い」なんて笑われるとダメで、相手への気持ちは薄れていきました。

 イラストに関してもそうで、友達の考えを鵜呑みにして、私は偏見がちがちの見方でしかイラストに対する姿勢がとれませんでした。
 進学、就職に対してもそうで、親から言われるまま、担任からいわれるままの進路をたどって来たように感じます。

 一時が万事、こんな感じでした。人生は他人が基準であって、自分の考えはどうでもよかった。人から「こうでなければならない」と押しつけられるとそれを拒否出来ずにいました。
 他人に人生をあけわたしてるから、いつも心の奥に苛立ちがあったと思います。自分を持たず他人に依存した人生ほど苦しいものはないでしょう。

 幸せかどうか感じる事ができるのは自分しかない。それは他人ではない。
 失敗して痛い思いをするのは自分自身だ。他人ではない。
 他人を変える事は出来ない。変える事が出来るのは自分自身だけだ。
 あなたは自分で考え、自分で決めて、自分で判断に対して責任をとらなければならない。自分で決断する。それは他人のせいに出来ないということです。

 「あいつがこう言ったから」「あいつのせいで」なんて言葉で、それを受け入れてしまった自分に責任がないと思いこんでしまう。
 他人がどういおうと、最終的に決定するのは自分です。決断の結果は無責任な事を言った相手ではなく自分自身にかかってくるという事を忘れてはいけない。他人の言うままに行動したのは自分の判断なのです。

 自分を出して他人から嫌われるのが怖い。こういう部分もありますが、決断の責任を自分で負いたくないという逃げもあったのではないでしょうか?
 逆説的ですが、他人に人生をゆだねるのは楽な生き方という面もります。自分で考える必要はないのですから。

 他人に基準をおく人生を送ってる人は他人を支配したがります。自分が好きなようにするには他人に変わってもらわなくてはいけない。
 満足いく人生を生きるためには、人生の判断基準、評価基準である他人が変わらなくてはならないからです。

 しかし、世の中、そう自分の都合のいいようには出来ていません。それが理由のわからない苛立ちとなって心を乱す。そうやって蓄積されたストレスが精神病となって生活の支障ともなります。

 私たちは(他人に迷惑をかけない範囲なら)もっと自分に基準を置いて行動しなくてはいけないと思います。好きな趣味を持ち、好きな音楽を聴いて、好きな相手を好きになり、好きな仕事をして、好きな人生を送ろうではありませんか。

 そして自分の決断には責任をもたなくてはなりません。自分の好きな人生を送るには、自分らしい生き方をするには、ある程度の代償も覚悟しなくてはいけません。好きな仕事に就くために遊ぶ時間を割いて勉強する事が必要かもしれませんし、好きな趣味をするために他の趣味を止めなくてはいけませんし、好きな相手の恋人になるために 二人の間の障害を一つひとつ取り払わなくてはいけないかも知れません。

 もし、望む結果にならなくても自分で選んだ道ならば納得もいくでしょう。悪い部分を反省する余裕もあります。しかし、他人が選んだ道なら決定をゆだねた相手を恨み、それで終わりです。

 「ああ、俺はなんて不幸なんだ。あいつがあんな事を俺に言ったからこんな結果になってしまった」

 と嘆くだけで、具体的に何処が悪かったとか、これからどう対処していけばいいとかいう部分には考えがいかない。

 「俺が選んだ判断だ。こんな結果になってしまったけど、仕方がない。次はもっとうまく対処しよう」

 こう考えられるのが大切ではないでしょうか?

 他人に基準を置く人は自分が幸せかどうかなども、他人から決めてもらわないとわからない。他人から「おまえは幸せだ」と言われないと幸せを感じることができない。自分が幸せに感じることでも「それは幸せなんかじゃない」と他人から言われると幸せじゃなくなってしまう。
 こんな理不尽な事があっていいのでしょうか?
 
 世間で通用している幸せの基準を絶対と信じ込み、ささやかな幸せに気が付かない。自分から幸せを感じ取ろうともしない。
 たとえ他人のいう所の”幸せ”になれても、自分のいう所の”幸せ”ではないので心の何処かに不満がある。

 二十数年間、自分の中にあったつかみどころのない苛立ち。それは自分が自分の人生を生きていなかった事に原因があったと最近やっとわかりました。
 周りや流行に流されない自分。自分らしい生き方を大切にしていこうと思います。