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Eno:Eno

Biography

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AUTOBIOGRAPHY 1



 私は1948年5月15日、サフオーク・ウッドブリッジに生まれた。16才なるまで、修道尼とデ・ラ・サールの友邦君主などから教育を受けた。その後、イプスウィッチ・アー・ト・スクールで2年、ウインチェスター・アート・スクールで3年間学んだ。
 イプスウィッチ時代、私は音楽装置としてのテープ・レコーダーや、その電位に非常に興味を覚えた。また、私はこの頃、声音の実験とサイバネティックス(人工頭脳学)の勉強を始めた。そうして、これらについての関心は、この2、3年再びぶり返している。
 ウインチェスター在校時に、私は美術(主に絵画と彫刻)を学んだが、その殆んどの時間を具象詩を発行したり音楽を演奏したりするのに費やした。
 1967年、私はメンバー移動の激しかったグループであった、マーチャント・テイラーズ・シュミュルティニアス・キャビネットを結成した。このグループで私達の演奏した曲は、私の書いたオリジナルとクリスチャン・ウルフ、トム・フィリップス、ジョージ・.ブレッチ等のものだった。
 ウインチェスターの最后の時期に私にとっての最初のロック・グループである、ザ・マクスウェル・デモンに加わり、ジョージ・ブレッチのドリップ・イヴェントの1000フィート立法版を製作した。ザ・マクスウェル・デモンは2回しかコンサートを行わなかった。私の作ったドリップ・イヴェントは、バンダル人の如き芸術を解さぬ野蛮な人々によって破壊された。
 1969年、アート・スクールを出て、私はロンドンに移った。ロンドンで私は現代文化の可能的未来に関する見解という同じ興味を持った友人(大部分は美術学校の生徒)と共にグループ活動を行った。私はまたスクラッチ・オーケストラにほんの少し加わったりもした。家に自分のスタジオを作ったのもこの頃だ。
 1971年1月、ロクシー・ミュージックに加入。私達は1年近くもリハーサルを重ね、1972年の春に初めてのレコ一ドを発売した。そして私がグループを去る1973年の7月まで (セカンド・アルバム“フォー・ユア・プレジャー”の録音期間を除いて)、 ロクシー・ミュージックは継続的にツアーを行った。
 それ以後、私は自分のレーベル、オブスキュァ・レコードで幾つかのアルバムを発表した。そして、このレーベルを設立するにあたり、ありとあらゆる関係の人達から多大なる協力を受けた。また私は、幾つかの大学やアート・スクールで現代文化の多面に於ける関係や、記述的言語としてのサイバネティックス科学に於ける関連性等についての講義を行った。4本の映画と2つの演劇の為の音楽も書いた。これらの音楽は、もうすぐレコードとして発表しようと思う。現在、私はサイバネティスト、スタフォード・ベアが出版する予定の本にオートポイエティック(自己形成の)ミュージックの研究を寄稿する為に筆を執っている。

 

  rock magazine 13  1978.04 (hataeno)

 


AUTOBIOGRAPHY 2


 

 私は1948年、サフォ−クのウッドブリッジで生まれた。イギリス東海岸近くの市場町だ。父は郵便局員で、母はベルギー系移民だった。ウッドブリッジで育ち、母も弟も妹も、叔母もいとこもそのほか親戚一同は、いまだにそこかそのまわりに住んでいる。
 カソリック系の中等学校に通い、イプスイッチ美術学校に入学。そこでロイ・アスコット、アンソニーベンジャミン、トム・フィリップス、ノエル・フォスターらと勉強。ハインツ・ヘンゲスやトレヴァー・ベルらと、ウィンチェスター美術校で芸術学位を取得。
 1969年にウィンチェスターを離れ、ロンドンに引っ越した。そのすぐあとロキシーミュージックに参加、レコードの録音とプロデュースを開始。70年代後半には視覚芸術活動を再開して、光やビデオ、スライド、音響を使ったインスタレーションを行っている。

ブライアン・イーノ ( A YEAR  から )

 


いくつかの補足 と キーワード



 本名は、ブライアン・ピーター・ジョージ・セイント・ジョン・ル・バプティスト・ド・ラサール・イーノ(Brian Peter George St John le Baptiste de la Salle Eno)1948年5月15日生まれ。イーノが通ったカトリック系の中等学校とは、「厳格な英才教育を宗教実践の核とする」ラサール修道院のことらしい。しかし、イーノにとって神とは、「…なんでそもそも神なんか考えなきゃいけないわけ?そいつが何する役にたつってぇの?」と、妻・アンテアに訊ねるぐらいのものでしかなかったようだ。
 (アート・スクール及びロキシー・ミュージックでの活動(1964〜1973)については、ENO青春物語TUを参照のこと。アートスクールでのアイデア・方法が、その後の活動に生かされ発展していることが読みとれる。)

 ロキシーミュージックの結成(1970)に参加。オブリクストラテジーズを駆使しながらバンドの創作活動にあらたな方法を持ち込む。しかし1973年に事実上放逐される。数年後、リーダーであるブライアン・フェリーは記者に対し「イーノはすごく頭のいい奴だけど、ミュージシャンじゃない。何をどう演奏すればいいのか、まったく知らないんだ。彼ができることは、あの彼の機材を操作することだけなのさ。彼は自分ができることに関しては、非常にうまくやれるんだが、それは必然的にかなり範囲の狭い音楽だと私は思うね」と慇懃な軽蔑を添えて語っていたとのこと。フェリーとの関係は長いブランクが続いていたが、フェリーを中傷誹謗する記事に対しイーノが抗議の手紙を書いたことがきっかけとなり関係修復。フェリーのソロ・アルバム「マムーナ」(1994)にゲスト参加。

 ロキシー以降は、特定のバンドメンバーとして活動することはなく、ソロもしくは他のミュージシャンとのコラボレーション・共作を続ける。また、「オブスキュア・レコード」という自主レーベルを設立。実験音楽を普及させるとして1970年代に10枚のアルバムを発表。
  コラボレーションの作品としては、キング・クリムゾンのロバート・フィリップ、ロキシー・ミュージックのフィルマンザネラ・801、ジョン・ケール、ニコ、ケヴィン・エアーズ、クラスター、デビッド・ボウイ、トーキングヘッズ(デヴィッド・バーン)、U2、パヴァロッティ、ハロルド・バッド、ジョン・ハッセル、ダニエル・ラノワ、マイケル・ブルック、弟のロジャー・イーノなどがある。
  イーノがプロデュースしたミュージシャンとしては、ジョン・ケール、ウルトラボックス、DEVO、トーキングヘッズ。さらには、コントーションズ、DNA、などによるニューヨーク・パンクスのコンピレーション・アルバム「ノー・ニューヨーク」を制作するなど、70年代後半、当時、注目のバンドを相次いでプロデュース。(プロデューサー稼業について語る  )このころ、ニューヨークでは「ENO IS GOD」の落書きが見られたとか。 その後も、U2、ジェイムス、デビッド・ボウイ等をプロデュースし、「ロック」畑以外にも、エディ・カンホ、テレサ・デ・スィオ、ズキ・ム、テリー・ライリー、ララージ、ジョン・ハッセル、ローリー・アンダーソン、その他をプロデュース。(細野晴臣氏がイーノのプロデュースについて語る) また、イーノがWindows95の起動音を作曲したことは有名(ことの経緯はここで


 主なソロ作品として13枚のアルバムを発表。1973年から77年の「ビフォアー・アンド・アフター・サイエンス」まで、「ロック」的な曲を含むレコードを4枚発表。それ以降、ロックについては「何らかの価値のある音楽は、ぎこちなさと混沌から生まれる……ロックはもはや危険な物ではなくなった」(1980)、「事実上私はロック・ミュージックを放棄してしまった。なぜなら、私にとってロックは前のように精神的な内容を作り出せるものじゃなくなったから」(1982)「ポップ・ミュージックからは、以前のような新しい世界を発見することは、もうない。古い物の焼き直しを何度も見せつけられているような気がするだけだ」と語る。

 しかし一方で、他のミュージシャンとのコラボレーションでは、前記に見られるように「ロック」的アルバムを制作し続け、今日までプロデューサーとしても引っ張りだこである。その後、92年には「ロック」的なソロ・アルバム「ナーヴ・ネット」を発表。91年6月に同じく、歌物の入った「マイ・スケルチーライフ」を制作しながらも自らの手でお蔵入りに。(この辺の経過はインタビュー93を参照)
 
 1975年1月の交通事故で入院した時に「アンビエント・ミュージック」のコンセプトを得る。その後、自らのレーベル、アンビエント・レコードから、1979年から1982年までアンビエント・シリーズとして4枚のアルバムを発表。「ミュージック・フォー・エアポート」の内ジャケットで、アンビエント・ミュージックについてマニュフェストを掲げる。

 1979年以来、画廊や公共の場でテープ音楽とヴィデオ・モニターなどを使ったインスタレーションを行う。これまでグループ展を10回以上、個展を30回以上開く。主な開催地として、バルセロナ、パリ、ベルリン、ケルン、コペンハーゲン、ハンブルグ、ロンドン、マドリッド、ミラノ、パリ、ニューヨーク、ベニスなどなど。日本では、1983年7月に東京・La Foret Museumでビデオ・インスタレーションが、1989年8月には神戸:XEBC HALL、東京:SEED HALL、SOUND AND LIGHT JAPAN 、1990年9月に東京:aMLUX でそれぞれ行われた。1983年の来日時に行われた講演では「私がやっていることはもうすでに誰かがやってしまったことで、決して新しいことではない」、などと話す。インスタレーション用の作品はエノ屋“EnoShop”で購入することができる。
 また、音楽活動としての来日は1989年・吉野・天川弁財天で奉納演奏、2001年7月のフジ・ロックに出演。
 
 妻・アンテアの影響で ウォー・チャイルド WarChild の活動に関わる。以降、チャリティ・アルバム「HELP」の総合プロデューサー役をこなし、さらにはアメリカの政治的・軍事的独走を批判する発言行動など行う。

 今年に入ってからは、フィリップ&イーノ3「THE EQUATORIAL STARS」を発表し、アテネオリンピック公式ポップ・アルバム「UNITY」で、Rachid Taha と共演。

 

自らの墓碑銘を
そこそこの歌をいくつか共作し、恥をおそれずはげた
とする

 

 

●●好きな作家は3B。つまり、ウィリアム・バローズ、ボルヘス、ベケット●●

 

 

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