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interview 1999

 


 

ENO・・・後藤繁雄
1999.7.6  ロンドン

 

ロンドンの美しくて、短い夏。「今日は、素晴らしい天気だから、外でやろう」。彼は快活にほほえみ、アシスタントに指示して、テーブルと椅子をオフィス前の路地に出させる。

彼は「すでに知っていることに答える」というのではなくて、「問に反応しながら、自分を少し違うところヘドライブさせることを楽しんでいく。外で話していると、彼の妻でマネージャーのアンテアがやってきて、イーノに「あなたが昨日なくしたカードをもらってくるわ」と言って、車のキーを取っていく。僕たちは彼女が言った「忘れもの」というコトバから「記憶」の話に進んでゆく。そして、プロセスを楽しむ話にもどり、人はなぜアートが好きなのか、そうした疑問をもつのが好きなんだ、と暑そうに太陽を見上げた。

しかたなく、僕らは小さな天窓のある部屋へ逃避する。テーブルにつくと、今度は「日食」の話になる。「なぜ月は太陽と同じサイズになる位置にあるんだろう?そんなにものすごい偶然なんてあるんだろうか?『ものを理解したら神秘的でなくなる』なんて言う人がいるけど、私はそう思わない。それより、もっと魅力的な次の疑問ヘと開かれていくんだよ」。そう言った途端、空の上でジェットの音がし、テーブルの上を瞬間、黒い影が横切った。太陽とジェッ機と天窓の「小さな奇跡」、その快感。

彼は「君がもし4年後に考古学者だとしよう。地面を掘っていると、『この中に20世紀で最も重要な絵画を撮影した写真が入っています』と書かれた箱が出てくるんだ。君はそれがどの絵画なのかと思う。箱を開けるとそこには真っ白い写真が入ってる。君はがっかりして、何かの手違いだろうと思う。でもそれは20世紀で最も重要なアートの一つ、マレーヴィッチの『白の上の白』なんだよ」なんて話もする。

そうかと思うとテーブルから立ち上がり、20年前にタイヘ行った時のチャイニーズ・オペラが、いかに「完全に妙なものだった」かを演じる。顔をゆがめ、奇声を発し、京劇俳優の真似をした。
「なぜ、ああでなくちゃいけないんだろう?まったくわからなかった。我々人間は、実に精密にサインに対して反応するように作られているんだ。そして驚くほどそのすべてに適応しているんだよ」。

話題は、フランス人が日本料理の刺し身に点数がつけられるかという話になり、自分で料理を作ることは、「唯一の瞑想だね」と言った。
話はABを生み、BCを生むというように続いていく。それはかつて味わったことがないほど愉快で快感に満ちた時間だった。
話はサンフランシスコのミヤコ・ホテルに滞在していた時に、夕日が射して、部屋中が強烈な金色に染まった時の体験でピークを迎える。それがいかに至福と呼べる感覚で、25年経った今も音楽やインスタレーションを作る時に、その体験がもとになっているか。
「あの時のことを、正確に再現したいっていうんじゃない。あれと同じ強さをもった体験を作り出したいんだ」。快感のセンセーションが技術的な革新とは何も関係がないということ、小さな瞬間、とてもシンプルな出来事を作りたいんだと言った。

彼はつい先日自分が作った作品の話をし、朗読を始める。とてもゆっくりと。
あの洞窟の中を想像してごらん……君の頭の中は片側に向いている。動物の脂の塊、影がちらちら壁に揺れている……。
「そうさ、物語を聞いているのを忘れるぐらいくりやるんだ。物語を忘れて、またコトバを聞くと、違う物語を考え始める。おかしなゲームなんだ」

 

後藤繁雄:1954年大阪府生まれ。編集と広告、両方の分野のディレクターとして活躍する。「独特編集」をモットーに、写真集、アートブツクなどを数多く手がける。

 


 

ENO

 

「アンビエント・ミュージック」という考え方は、五感をもっいる人間の体を音楽に浸すってことだど、その考えは私にとっては、実はとて東洋的なんだよ(笑)。その音楽を作っいる時、私は日本的な考えに非常に影響受けていた。「ワビ」と「サビ」さ。その感覚の中にある「不在」っていうことを、部分的にでもいいから自分の音楽に取り入れたいと思っていたんだ。

一人だけの時問をもとうとすることはいい方法さ。忙しかったりすると、いつも他の人間といることになってしまう。でも一人になると、自分も忘れられるし、他の人間も忘れる。
一人だけで時間を過ごすのは重要だね。自分がどれだけ自分の「五感」というものを楽しんでいるか、それが思い出せるから。例えば、私はここに座っている。君の後ろのレンガがあるだろう。しばらく眺めていると、そのレンガを背景にした黄色の塗料の色に魅了される。私には、色や匂いのコンビネーションについては、ほぼどんなものでも楽しめるキャパシティーがあるから。でも、これを見て「ああ、美しいね」と言うためには、ちょっとした努力が必要なんだよ。「思い出す」っていうね。私は時々、そう努力するんだ。

私は日記をつける。とてもハードワークさ。でも、記憶として保存するというのは、美学的なボキャブラリーの一部にするということなんだ。たくさんのイメージを混ぜ続けて、新しいコンビネーションを作る。
日記は非常に根気がいる。だから私は、それと同じことをする新しい方法を考え続けている。例えば、今年の数日問、自分が使ったお金を1ペニーにいたるまで、すべて記録してみた。あれは興味深かったね。それだけで一日を思い出せるんだ。
もう一つ考えたのは、カメラをいつも携帯していて、30分ごとに写真を撮ること。すると大体、毎日1本のロールができる。でも、それっていい日記になると思わないかい?1ぺージに36枚の写真が貼られていて、それが76日。すべてを記憶したくはないし、無理だ。だから忘れること、物事が消えるがままにするのも重要だよ。実際私にとって一番心地いいのは、自分というものを忘れるというフィーリングだからね。自分は「ただ見ている」だけで、「私」と呼ばれている人間としての意識が少なくなるんだ。モノが「私」の中に入ってくるだけで、「私」が何なのか、どこにいるのかもわからない。その感じがすごく好きなんだ。

単純に「知らない」という感覚じゃなくて「自分の知ってるモノ」「知らないモノ」が混じり合って、今まで認識していなかった何かを生み出すんだ。だからこ、いつも音楽にひかれるんだと思う。同じいくつかの音符と、音楽的アイデア。でもそれがある時、パターンやクラスターを形成する。まさに魔法さ。本当に神秘的だと思う。こうやった時は何も起こらないのに、別のやり方をすると魔法が起きる。だから、純粋な「知らないモノ」じゃない。「知っているモノ」をどう見るかということが、自分の「知らないモノ」をクリエイトすることだ。それがエキサイテイングなんだ。

我々は自分たちがすべてをコントロールするという考えに慣れきっている。でも実際コントロールできることなんて、そう多くはない。
しなければいけないのは、スタティックなものとカオティツクなものの間のちょうど「エッジ」で生きることなのさ。そのどこかに、我々のための小さな場所がある。アートと人生は切り離せない、一つのものだと皆考えるのが好きだけど、私は嫌いだね。「アート」は、自分の人生や生活の中でできいことをするための場所だと思う。危険で反社会的かもしれないが、感情や直感、五感のための実験室なんだよ。

 


花椿 1999.11