
interview 1995
デジタルな時代において、アーティス卜のスビリッ卜を形にできる人がいるとすれば、それはブライアン・イーノだろう。47歳の彼は、美術の学位を取得し、ポップ・ミュージック(あるいはアンビエン卜・ミュージック)というジャンルを生み出し、ロックスターたちのアルバムをプロデュースしてきた。そしてハイソサエティな画廊で、定期的にマルチメディア作品展を開催しているのだ。世界的にも卓越した彼の才能の根本には、きわめて並外れた知性が横たわっているといえるだろう。なにしろ“イーノ教授”というニックネームをもつ彼は、つい最近米国プリマス大孝でテクノロジー名誉博士の称号を与えられ、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アー卜で客員教授に指名されたほどなのだから。
イーノは“ルネサンス・マン”であり(本人はこの表現を嫌うが)、LP、TV、PC、CD、MlDI、写真、そして電子メールといったあらゆる新しいメディアを優雅に使いこなしてきたアーティス卜だ。彼にとっては、デヴィッド・ボウイやU2やロ一リー・アンダ一ソンのアルバムを制作するのも、彼の専門分野である香水やヘアカッ卜や“作曲ツールとしてのスタジオ”について講義するのも、同じくらい楽しい作業だという。おまけに彼は、それらの実に立派にこなすのだった。
最新テクノロジーに誘惑されることなく、それを開拓していくイーノ。彼はツールの使い方を熟知し、ツールを持っていることさえ忘れてしまうほどである。テクノロジーへの冷淡さと親密さを併せもつことで、クロス・テクノロジー・アー卜の先駆者にのしあがった彼は、現代生活のオブザーバーとして、因襲的なものの仮面をはぐ才能ももっている。不敬な言行を自分にも他人にも平等に使う彼は、1992年のソロ・アルバム『NerveNet』をこう表現してみせた。“パエリヤ:自己矛盾による混乱。バランスを失い、ポス卜・クールてポスト・ルート、中枢がなく、ここはどこ?な音楽”と。
米『WIRED』誌のエグゼクティブ・エディターであるケヴィン・ケリーは、数力月かけてイーノを取材した。カリフォルニアで本人を前にしてのインタビューに、電話インタビュー、電子メール・インタビュー。イーノのいつもの仕事と同様に、取材はリミックスされ、再構成され、さらに“自己矛盾による混乱を来して、バランスを失い、ボス卜・クール’にするため、そして僕らがどこにいるかを明確にするため、ひとひねりされている。

芸術はいつのまにか意義を失ってしまったようですね。あなたに悪気はありませんが、絵画なんてどうでもいいのでは?
まず、本来はもっと重要なのに実際は軽視されてしまっている、といったものに私は、敏感に反応するね。そして芸術は、私たちに今もなお影響を及ぽしているよ。ただ芸術発生のプ口セスが、他の場所で、というより他の名で呼ばれている場所で行われているだけだ。私はいつも中世の紋章学を引き合いに出すけど、今の状況は、何百年も意義をもち続けてきながら現在は謎に包まれている、中世の紋章と同じさ。つまり、芸術活動の伝統的拠点は権力を失いつつあっても、その代わりに新たな拠点が力を持ち始めている。人々は、見当違いな場所で芸術を探してたわけだよ。
芸術が最重要視されていた時代ヘタイムスリップできる往復切符を、私があなたに差し上げるとすれば、どの時代に行きますか?
知性派アラブワールドの絶頂……11世紀初期から13世紀中期の間あたりが、時代体験するには絶対面白い。
なぜその時代なんですか?その後のルネサンスじゃだめなんですか?
本当のことをいうとルネサンスにそこまで興奮したことはないんだよ。もちろんその時代を体験できれば楽しいだろうが、自分にとってルネサンスとは、絵画からものを除外することに重きを置いていた時代に感じられる。つまりそれは、私たちの魂の一部を無視することだよ。それもちょっと汚くて野蛮な部分を。またそこには、確実に可能で完全であるといった感覚……非常に行動の自由を妨げられるような感覚があるしね。
しかし、アラビア絶項期と現代は、よく類比して論じられるんだ。あの時代は、あるタイプの自覚から別の自覚へと大きな変動があり、古いシステムは腐食して崩壊し、苦しみながらも新たなシステムが生まれている。科学と錬金術、哲学と宗教との間にあるバランス感覚を観察できたら、非常にエキサイティングだろうね。 じゃあそろそろ、話を進めてもいいかい?未来の方向に。
別の切符になりますが、未来への往復切符を差し上げてもいいですよ。どこまで行きたいんですか?
え一と、ほんの50年ほど先だね。
それって無駄な気がしませんか?50年先なんていずれ自分で行けるんだから。それとも待てないんですか?
そう、待てないんだ。アフリ力がどうなるのか知りたい。
アフリカ?
たとえて言うなら、アフリカはクラシック音楽にないものをすべてもってるところなんだ。クラシックというより“オーケストラ”と言うべきかもしれない。オーケストラは、リズムもピッチも演奏者の役割もすべて、非常にデジタルに、細かく分担されている。すべての要素が、小さな箱の中にきれいに収まってるんだ。チェスや算数やクラシックの世界に神童が現れるのは、可能性の幅が狭くて一貫性が必要とされない世界だからさ。それに、同じ演奏を何度も繰り返すオーケストラの特質も気に入らないね。だからクラシック音楽に、アフリカは存在しないんだ。クラシック音楽は、古びた階層制度や序列を代表するものさ。オーケストラの音楽は、私がルネサンス時代で無駄だと感じるものすべてを代表しているよ。とんでもなくスローなフィ一ドバック回路とかね。
もしきみが、ああいう類の音楽の作曲家なら、自分の作品を客観的に聴けるようになるまで、数年かかるだろう。オーケストラの作曲家は、建築家のもつ欠点やうぬぽれを快く受け入れてしまう人々で、本質的に非即興的で非経験的な形式に陥りやすい。あまり不条理な空論家になってもいけないが、でも私はそういった音楽を屁とも思ってないよ。自分にとって役立つものはなにもないんだ。
じゃあ私が身震いするほどェキサイティングだと思えるのは何かというと、その土地に根ざしたウエスタン・ミュージックとアフリカン・ミュージックの衝突だ。私がこんなに音楽を愛しているのは、その衝突があるからだよ。アフリカン・ミュージックは、私の作る音楽すべての基礎になっている。
アンビエントミユージツクでさえ、基礎は同じさ。アンビェントは、楽曲の中に閉じこめられた音を開放し、自由を与え、一定のテンポに束縛しなければどんな音楽ができるのか、という好奇心から生まれた音楽だ。アンビエン卜のように自由な浮遊感覚……独立心と依存心の奇妙な組み合わせと、それらの間に生じる動揺が、西アフリカのドラム・バターンの特徴なんだよ。このアフリカ文化で見つけた感性を、未来にタイムスリップして自分の目で見てみたいとは思うね。アフリカが現在おかれている激変の時代から開放された姿を、見てみたい。どうやって開放されるのかはわからないが、ぜひとも次のステージを見たいよ。アフリカ文化が再び、私たちに強烈なインパク卜を与える日が楽しみなんだ。
その文化がどんなものになるか、推測できますか?
もちろん。私がロンピュータを嫌うのはなぜだか分かるかい?それはコンピュータに、アフリカが十分入ってないからだよ。だから長時間使えない。じゃあオタクってなんだと思う?それはアフリカを十分にもっていない人問のことなんだ。逆に人種差別的な発言にとられてしまうかもしれないが、アフリカとのつながりは非常に重要だと思うよ。なぜ音楽がこれほど長い間、私たちの生活の中心にあると思う?それは、音楽こそがアフリカを人々の中に取り込む手段だったからさ。でも50年後には、アフリカじゃないかもしれない。ブラジルかもしれない。それでも私はその感性を見るために、別の領域に侵入したくてたまらない。コンピュータのようにね。
私は、アフリカのファジーな論理と、白人のデジタルな論理の対立論を聞かされるたびに、そこにアジアの論理を入れて、三角関係の対立にしたら面白いんじゃないかと思ってきました。アジア人がこの中に収まる場所はありますか?
第三者の影響力は、どんなものでも対立をやわらげるよ。アフリカの論理は、私がいちばん納得できる論理なんだ。しかし近東は、その先に何があるかを教えてくれる。たとえば、ハーモニーはそもそも西洋の発明品だった。アラビア音楽にハーモニー的要素は見あたらないんだ。西洋ではオーケストラはハーモニーを演奏するために発明されたものだ。ところが近東ではオーケストラは全員同じ音符を演奏する。そこでアラビアは、本来ハーモニーを奏でるためのマシンであるオーケストラを、音楽にテクスチヤーをつけるためのマシンに変えてしまったんだよ。そもそもテクスチャーは、アジア音楽にとって最も重要な要素だ。そしてアジアの音楽は、常にひとつの声しか演奏しない。しかしその声こそが、異なり変化するテクスチャーをもっている。これが、西洋の道具を使ってアジアの感覚であるテクスチャーをリンクさせるいい例だね。そう!もうわかっただろう。この巨大なテクスチャー制作マシンこそが、オーケストラなんだ。
それで、どうやってコンピュータをアフリカ化したり、ブラジル化したり、自由に開放するわけですか?
腹を立てることでだよ。自問自答するんだ、なんでこんなにムカつくんだろう、って。それで私が何にムカついていたかというと、自分の体をごくわずかしか使わないからムカついてたんだ。ただそこに座ってるだけじゃ、あまりに退屈だった。こんな小さなマウスをあてがわれて、操作に要するのは片手と目だけ。それだけさ。じゃあ体のほかの部分はどうすればいい?こんなコンビュータを使いたがるアフリカ人はいないよ。監禁されてる気分だね。
ということは、全身を使うコンピュータを作る必要があるんですね?心臓が脈打ち、踊りながらテキストや映像やメッセ一ジを入力できるような。どうしてそれがまだできないんでしょう?
歴史っていうのは、ムカつく人間たちによって変えられるんだ。現状のコンビュータを現在面白がって使っているのは、新時代の無気力人間だけさ。本当にに効果的なコンピュータを作りたければ、健康的で活動的で“人生やることはいっぱいあるわ”というような女性だけを集めたチームを作り、全権を委ねればいい。ただし、いかなる状況下でも、次の人間にだけは助言を求めてはいけないね。それは、1)コンビュータ・ゲーム好き人間、2)バカげたことを“クールだ”と表現する人間、3)毎晩毎晩コンピュータ以外なにもやることがない人間。
え?それで、あのクールなボタンをすべてなくしてしまえ、と?
、中のオプション数を増やすことは重要ではないんだ。重要なのは信頼感を大きくすることで、体が接触する部分を向上させることなんた。もちろん、簡単なのはオプションを増やすことだよ。まったく概念の再考を必要としないんだから。でもユーザーとマシンの友好関係は、オプションを減らすことで得られるかもしれないんだ。何年も口をすっばくしてシンセサイザーのメーカーに言ってきたことだけど
続く