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interview 1995


 

 急速に変化する技術の猛攻撃を通じて現在我々が感じる未来と、我々が、例えば「スター・トレック=The Next Generation」で見るような、ある意味で「想像上」のより良い場所としての未来どちらに興味がありますか?

 

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 僕が好きなことのひとつは、将来どんなことが起こりえるかを考えることなんだ。僕はかなり違った未来のほうに賭けるのがいいと思うんだけど、本命よりは(笑)どちらかというと大穴に賭けたいね。だって、それは天気を予想するようなものだから。本当に多くの変数がある、ひとつの未来を想像するのは、ひとつのバスケットに、入り切れないくらい多くの玉子を入れるようなものだよ。例えば僕は、中国が軍事面で攻撃的になったら僕らの未来はどうなるだろうか、ということを考えてきた。中国は7,OOO万人も男性が多いんだ。男性の数が女性の数より7,OOO万人も多い。これまで女性をないがしろにしてきたから7,OOO万人もの男性が余っている。その頂点には、巨大な軍事産業があり、それが彼らにとって、非常に成功している産業のひとつとなっている。だから、可能性として、中国が本当に極東の軍事的侵略国になるということも考えておかなくてはならない。こんな風にたったひとつの視点からみても、様々な未来を考え出すことができるんだ。例えばロシアはどこに落ちるか?こちらに付くのか、あちらに付くのか?日本はどうだろう?(こちらに付くと僕は、思うけど)、それから周辺的な場所も数多くある。韓国やラオスなどのような新しい虎がね。だからこのことひとつについても、結局いくつか異なった未来を考え出すことになる。それでもまだたったのひとつだ。そして起こりえることは、ほかにも沢山あるんだ。

 

 理想化された未来について面白いのは、世界や外的宇宙が完璧な場所であって、我々は他の生物と調停の場で会うことになっている点だと思います。問題があるとしても、それは解決できる。戦争はなくなり、紛争もなくなって最終的にはすべてがうまくいくと思いますか?

 

 未来は混乱しているだろうね。現在というものはいつでも混乱し、すべてはいつも混乱している。なぜならすべては人問の理解を超えているから。もちろん、理解はいつも過去に向かっている。物事がどうであったかについては、追いついて理解できるが、物事が今どういう状態であるか、についてはいつも混乱している。しかしそれはいつでも混乱しているだろうから、そんなシナリオは信じないことにしているんだ。

 

 最近ワイアード誌でケヴィン・ケリー氏に対して“音楽は最盛期を過ぎた”と述べていますね。これはとても論議を招く発言ですが、あなたはこの点についてとても強調していたようですね。

 

 僕が考えているのは、音楽がもはや文化の中心ではない、ということなんだ。しばらくは中心だったけど、文化の中心はいつも変化しているしね。文化の中心は音楽にあった。今はそうではないし、もう長い間そうではなかったと思う。だからといって、音楽がもう重要ではない、というわけではない。ただもう活気がないんだ。明らかにね。活気に満ちたものが本当に影響力を持つには、それがしっかりと一体化していなくてはならないし、それくらいアイデンティティをもっていなくてはならない。これが今の音楽にはあてはまらないんだ。音楽はあらゆる場所にあり、違った物事が数多く起きていて、入々はあまり関心を払わない。
 過去のようなこと、例えば1970年のワイト島フェスティバルで起きたようなことは、もう起きないだろう。少なくとも、音楽が巡りめぐって円を描き、また元に戻ってくるまでの間は。音楽はライフ・スタイルに関するあらゆる物を入れる容器だった。好きな音楽によって、人ははっきりとアイデンティティを持つことができた。そう、それ以来僕らはポスト・モダンへと突入し、今やもうそんな風でなくなってしまった。以前は特定の音楽にあったアイデンティティの感覚が、今はもうないんだ。

 

 現在はあまりにも多くの音楽が存在するというところに問題があリます。ビル・ラズウェルやピート・ナムロックのような人々は、実際毎週1枚づつCDを出していますね?

 

 だからこそ、同様に集中することが不可能になってしまったんだ。若かったころは、ヒップな音楽とヒップでない音楽とがあった。本当に狭かったんだ。しかしその狭さに価値があった。もしそれが文化の中心であるなら、だれもがその言葉を知っているし、誰もが何について話しているのか分かっている。誰もがそれについて意見を持っている。状況が現在のように散乱してれば、それはそんな風に作用しない。良いとか悪いとかではなくて、もう本当に作用しないんだ。もうそれは別の段階へと進化してしまった。同様のことが、小説にも起こったことは想像できるね。最初の小説が書かれたとき、それらすべてが影響力を持っていた。アイディアとしての小説は、強力で新しいアイディアだった。それはノベルな(目新しい)アイディアだったんだ(笑)。それから30年かそこらたって、家に落ち着いているミドル・クラスのレディーたちがみんな小説を書いた。もちろん同じような焦点への集中力は持っていない。そしていかなる個人的な提案も、以前のような鮮明度を持ち合わせていない。
 そんなことが起きて、今ではフィルムの方に幾分動いて行ってるんじゃないかな。この何年かの二つの大きな文化的進化は、デヴィッド・リンチの映画(誰もが知っていて誰もが意見を持ち合わせている)で、それは強烈にある種のアイデンティティを持つある決まった世界観を明らかにしている。それからもちろん、クエンティン・タランティーの映画。これらについて意見を持たない人はいないだろう。彼らは文化の中で、ビートルズのレコードが1960年代に占めていたのと同じような場所にいるんだ。

 

 最近あなたは「未完成の音楽」について述べていますね。現在の著作権問題に対して、音楽が単なる命令の一式になるのではないかと。それについてなにかコメントは?

 

 長い間、僕の音楽的な方向性は、音楽を作るためのシステムを発明することだった。アンビエント・ミュージックはすべて、実際そのようなものだった。素材を入れれば、システムが素材を再構築するような、そんなシステムだね。僕が過去に行なってきたことは、そのようなプロセスの最終結果をレコーディングしてリリースしたものなんだ。だけど、それはシステムがやれることの、ほんのわずかな断片でしかない。そのシステムは継続的に、新しい素材を生み出すことができる。そして僕は考えた。“なぜこのシステムを売らないんだろう?”ってね。つまり、システムと僕が選んだ素材をセットで売るということなんだ。出来上がりをひとつだけを売るのではなく、ここを押してシステムをオンにすれば、システムが何か作り出してくれますよ、と言う。もちろん出てくるものは、ボタンを押す度にわずかに違ったものになるんだけど、よく聴けばやっぱり同じものだとわかる。ちょうど「Music For Airpots」の2分目で起きることが、8分目で起きることと同じだとわかるっていう風なね。だけど必ずしも同じ音楽ではない。つまり、それは僕の選択や好みから生じるアイデンティティをまだ保っているが、正確なアイデンティティは持っていない。例えて言えば、僕が君にウィンド・チャイムをレコーディングしたものを売る代わりに、ウィンド・チャイムのセットを売って、そのウィンド・チャイムが風の具合によって違ったプレイをするようなものだね。

 

 これまで、現実に近いところまでそのアイディアを発展させたことはありますか?

 

 もちろん!SSEYOという会社と組んでいるんだけど、その会社がKOANという名前のミュージック・システムを作ったよ。これが基本的にはそういうことをやるマシンなんだ。僕はこのマシンを使って彼らと何かやるつもりだよ。

                       

 あなたはコンピューターに興味は持っているがフラストレーションを感じている、という記事を読んだことがあります。今はコンピューターに関してどう思いますか?あなたにとってどんな価値があるでしょう?

 

 僕はコンピューターを使っているよ。コンピュ一ターに関しては、僕が乗るタクシーのエンジンなんかに対する興味と同じくらい興味は持っている。確かにコンピューターがないとできないことが、コンピューターを使えばできるということはある。モノを書くのにも使うし、本当に楽しんでいるよ。周りにあるものを捕えて、素早く書き込み、あとから修正できるからね。これは絶対に言葉でも音楽でも役に立っていると思う。ほかに興味を持っているのは、自ら進化するようなものを作るというアイディアだね。あるプロセスを始動させて,それが展開していくのを観察するんだ。グラフィック的にもできるし、音楽的にもできるけど、こうしたことができるプログラムはまだそんなに多くはない。だけど、これはコンピューター分野の未来で、本当に面白いことなんだ。コンピューターについてのポイントは、人間の代わりに多くのことを素早くやってくれるという点だね。問題なのは、コンピューターというアイディア全体に興奮しているような、とても退屈な人達がコンピューターを作っているという点にある。本来は、コンピューターというアイディア全体が退屈だと思っているような人達が、実際にコンピューターを作るべきなんだ。必要な時以外はこれ以上コンピューターの前で時間を費やしたくないと思っているような人がね。だからもし君がコンピューターをデザインすれば、もっといいものができるはずだよ。今のところは、1920年代の自動車、つまり君が車を使うためのエンジンで外に出てエンジンを巻上げて前へ進むという風に考えられていた時代と同じようなものだ。コンピューターは前時代の遺物でまだ進化の途中にある。コンビュータ一の世界には、本当にまったくくだらないものが数多くあって、あの馬鹿げたゲーマー達がプレイしている。まるで時間の浪費だ。まったく退屈で、面白くない。だって、それがどこに向かっているか僕はわかっているし、全部滅びてしまうのを僕は待っているんだから。

 

 それは、よりフレキシブルでわかりやすく使いやすいコンピューターのことを言っているのですか?

 

 そして面白い。はっきりしているのは、あまり多くのことをやらない。小さくて安価なコンピューターへと向かう方向性だね。ひとつのことしかやらないんだ。僕は別にワープロ機能だけのコンピューターでもかまわない、別にグラフィックスや、カレンダー機能や,朝食を調理できなくては困る、というわけじゃないんだから。それからちょうど君のポケットに小さなウォークマンがフィットしているみたいに,僕のポケットにちょうどフィットするようなコンピューターがあったらいいと思う。で、必要な場所でセット・アップできるんだ。重すぎてどこへも持っていけない、とんでもないポータブルなラップトップなんかの代わりにね。

 

 あなたにとって音楽とは、まだ新しい可能性を音の世界で追及するためのものですか?それとも今は快楽のためのものですか?

 

 僕が今まで本当に興昧を持っていたのは、新しい文化の場所、言い換えると、新しい文化空間を見ることなんだ。僕はそれを音楽で行なってきたし、また今やっている別のこと、つまりインスタレーションでも行なってきた。今でも僕の動機はそこにあるし、今後もすべてに興味を失わせるようなものに出会わない限り、そうあり続けるだろう。

 

 あなたが時間を費やしている物事の活動のステージの中で、現在あなたが最も熱中しているものはどの分野ですか?

 

 う一ん。それについては一貫した答えはないね。その時に行なっていることには、すべて熱中している。インスタレーションを行なっている時には、音楽のことはまったく考えないんだ。音楽は、僕の心の中をよぎらない。僕は、プレイの中で必要としていないもののスイッチを完全にOFFにしてしまうような、制約というか才能を持っているんだ。だからインスタレーションをやっている時には、音楽に対してそれが作用する。また音楽をやっている時には、インスタレーションに対して実際作用する。近い将来は、音楽とインスタレーションの両方やその他のことを一緒にするかもしれない。前に話したKOANで僕はそのようなことをやっているんだ。KOANで話したり、講義したりね。話したり、講義したり、教えたりもするんだ。僕は多分相当多くの時間をRCAで過ごしている。これらはまったく異質なものだけど、ほかのものと互いにアクセス不能なわけではないんだ。ただ僕は努力して、互いに持ち込み合うようなことはしない。だけど、ひとつが関連してきて、別の分野のひとつから突然生まれたアイディアの多くがその時やっていることとちょうどフィットすれば、これらを一緒にコラージュできる、ってことはわかったね。僕がいつも興味を持っているのは、僕が予想だにしていなかったことや、僕の予想をはるかに超える何かを起こすこと。こうなるだろうと僕が知っている以上のことができるモノを発明し、構築するにはどうすればいいだろうか、ということ。そして、より簡単に、より経済的にそれができれば、僕はより成功したという感覚をもてるんだ。
 例えば5つの要素しかない音楽作品を動かしたとして、それが再構築し続けて、美しいサウンドだ、あっこれは綺麗だ、聴いてよ、これはすこい!という風に僕は考え続ける。そういうのは、良い価値があると思うんだ。僕が考えるものの中で、経済はひとつの大きな部分を占めている、どれだけ手をかけなくてすむか、つまり何かスリリングなもの、いったん起きると、ある意味ではちょっと普通にはない経験ができる、そんなところにたどり着く、そしてそれを継続する、こういうことに必要な最低限の要素の数はいったいいくつなのか、ということなんだ。

 

 だからこそあなたはこんなにも多くの人たちとコラボレーションをしてきたと思うのです。彼らは、予測していないことをたくさんあなたの前に投げ出してくれますからね。“僕らがやっていることを見て。これはどう思う?あれはどう思う?”っていうみたいに。これは、いつも物事を生み出し続けるために、自分自身にばかり頼るよりは良いということですか?

 

 そうだね。他人にハード・ワークをさせるのは本当に賛沢なことだよ。

 

 今年の最初にあなたの事務所の人から聞いたんですが、なたは「Several Perspectives Through The Eye Of A Lens」という本を出すそうですね。本当ですか?

 

 本当だよ。だけどそれには、いくつか違ったタイトルがあるんだ。まだ空想、の中のものだけど、僕はたくさんモノを書いてきたけど、また頭の中で形をとっていないんだ。本を書くというのは、僕にとっては本当に難しいよ。過去に、いろいろなことに手を出して成功してきたから言ったんだ“本を書くのなんか、問題ないよ”ってね。だけどそれは大きな問題だった。全然簡単じゃなかった。そして今では何かが実際の形をとったと確信できない限り、本を書くことはできない、ってわかっている。それは、「第1章、なんとかかんとか、第2章、なんとかかんとか」っていうのではないんだ。カタチには、なんらかのトリックが必要だ。カタチというもので遊ぶのは、本当は僕は好きで、その方向性ではいくつかアイディアを持っているんだけど、まだそれをクリックしていないんだ。いったんクリックしてしまえば、物事はとてもとても簡単に見えてしまう。いったんアンビエント・ミュージ'ツクというアイディアをクリックしてしまえば、つまり“ああ、なんか面白い静かな音楽だな”ではなく、もうこれが実際に聴く方法、サウンドの中で空間を使う方法を提示したんだと理解したら、それは実に簡単に見えたね。そうなるまでは、本当に難しかったんだ。なぜなら、正道ではなく見えたから。それは特に強く明確な位置付けを持たず、単に他の何かとは違うものに見えたんだ。今僕がやらなくてはならないことは、こうしたことであり、だけど今あまり時間を割いていないことでもある。本当にそれについては遅れをとりつつある。

 

  本のカタチについてはいくつかのやリ方があります。ウィリアム・バロウズの“カット・アップ”のやリ方、オーディオ・ブック、今はCD-ROMブック。こうしたものには興味ありますか?

 

 CD-ROMブックはいちばん退屈な種類のものだと思う。カタチにはまだ興味をもっているけど、そのカタチが言わんとしていることや、言わんとしている方法にもまた興味を持っている。今僕が携わっていることは、いかなる本の形にも収録できない。アンビエント・レコードが78r.p.m.ディスクにフィットできなかっただろうというのと同じようにね。十分な長さを持たないんだ。あるモノが、カタチを変えて置き換わらざるを得ないくらい、十分な長さがなくてはならない。というのが前提条件だ。つまり、僕が書きたいと考えていることの前提条件は、それが密接に、そして十分に連結していなくてはならないということなんだ。そして従来の本のような直線的なカタチは、それには適さない。

 


 Keyboard Magazine 1995     ( hataeno )