
interview 1995
20年前に米キーボード誌が扱っていた楽器といえば,ピアノ,オルガン.エレクトリック・ピアノに片手で数えられるぽとの原始的なシンセくらいでしたが,その後の音楽関係のテクノロジーの台頭をあなたはどう評価していますか?
どんなテクノロジーの変化も同じことだが,音楽間係のテクノロジーの変化は何よりはっきりした勢いに従っている。僕は常に,シンセ・メーカーを批判してき。技術に走ったあからさまな選択,つまりマシンに組み込むオプションの数を単に増やすだけというやり方をね。チップのプリンティングでいちぱん簡単なのは少しオプションを増やすこと。いちばん難しいのが、作っているマシン間のインターフェースをよりよくすること,または人間と新しく興味深い方法で関わらせることだ。例えぱ一部のアコーステック楽器のように鋭く反応するものを作り出す技術は,結局のところ本当に進歩しただろうか? 僕がせひ見たいものはふたつある。ひとつはス卜アされた、または作れるサウンドの数はそれほど多くなくていいが,プレイヤーに対して豊かな反応を示し,プレイヤーがその楽器を弾くとどんな感じかわかってくるようなシンセだ。
アコースティック楽器は,人間のコントロールに対しできる限り反応するようにできていますが,工レクトロニック楽器では,リアルタイム・コントロ−ルはいくつかの領域のうちのひとつにすぎません。
もったいない話だよね。ちゃんとそうなっていれば,面白い音楽が生まれるきっかけになるのに。ジミ・ヘンドリックスがああいうタイプの音楽をシンセで弾くなんて想像できないだろう。シンセで彼のコピーをすることは簡単だが,シンセのようにフィジカルでない楽器から彼のような音楽が生まれるとは思えない。プレイヤーがメニューにのっているすべてを手中にできるという点で、シンセは約束を果たしている。でも反対方向にはまるで進歩していない。プレイヤーがシンセに対して抱くラポール(信頼関係)は、20年前と較べてそれほどソフィスティケートされてはいないんだ。
若い入達はシンセのオプションについてよく話をしているだろう。そんな時,僕は必ずこう言うんだ。“オプションはまったく大事じゃない。大事なのはラポールだ。君たちがマニュアルを読みながら、いい感じでプレイできる何かが見つかれぱいいなぁと思っているなら,オプションはそんなに多くなくても大丈夫だよ”ってね。だってオプションが絶対だとしたら,たくさんの楽器がもっと昔のうちに発明されていたはずだろ? フルートにそれほと多くのオプションはないし、ドラムに至ってはほとんどないと言っていい。ひとつの楽器にオプションはひとつである場合が多い。だったらオプションが足りないじゃないか。シンセ・オタクの観点からすれば.ドラマーなんて一生木の棒で叩いて過ごすやつってことで,連中はバカげてるってことになるわけだ。
シンセのプレイしづらさに対処する方法は?
僕が“進化”と呼んでいる.独自のプログラミングに関するアイディアを発展させていくのがいちぱんさ。例えば,シンセのスイッチを入れると32のサウンドが得られるとしよう.それらをさっと聴いて、“よし、14番目は求めているサウンドによく似ている。18番目も近いな”と思えば,そのふたつを押すんだ。するとこれらを親とする変種が32種類出てくる。今度は“15番がなかなかいいからさらに変種を聴いてみよう”。こうしていくうちに求めるサウンドにかなり近づいたら,変化の割合を下げることかできる。ここで面白いのは、シンセが何をやっているのか知らなくてち全黙困らないことだ。複雑なことは機材の内部で起こればいいんだ.
アナログ時代。今の多くのモデルよリもシンセのニュアンスのコントロ一ルが多彩だったころでさえ.多くのピアニストはごくシンブルなプログラミングのジェスチャーにおびえていたものです,それでつまりあなたの目的は,ユーザーのサウンド・コントロールと、技術的理解の必要性を分かることですね。
その通り。唯一プレイヤーが学ぱなくてはならないことは判断の仕方なんだ。必ずしも技術を学ばなくてもいいんだ。さっき言った要領でしばらく作業すれば、そのプロセスによって発見したサウンドのライブラリーができる。数週間も経つと、そのプレイヤーにとってパーフェクトなサウンドを持つシンセが出来上がるんだ。
最後はもちろん、あなたの最高のサウンドをディスクにストアして、サードパーティーのサンプル集として売リ出す人か出てくると。
う一ん、それは言えるな。でもサードパーティーのサンブル集を聴いて,“こいつのバリエーンョンはどうなるのか?”と不思議がるのもよくありそうな話さ。そういうバリエーシヨンを出すのにボタンを押しさえすればいいのなら.そのサンブル集は僕のDX7のサウンドと同じようなものということになる。僕は同じ音を2度使いはしないが,ストアしてあった音に変化をつけてまた使うことはあるからね。
そこでサウンド作りかより有機的になり,ミステリアスになるのでずね。エレクトりック・ミユージックにおいてサウンドのプログラミングが完全にコントロールできる、またどうしてもコントロ−ルしなくてはいけないという古くさい伝統的な考え方をプレイヤーは捨てるべきだと?
もちろん。いずれにせよ楽器は、それほどコントロールしきれるものじやない。子供の頃.ピアノのあるひとつの鍵盤を何度も何度も叩いたのを思い出すよ。叩く度に音の感じが違って興味をひかれたものさ。もしデザイナー違が、十分な複雑なプロクラムを扱うことが許されれぱ、この手の変化をシンセに組み込むことは簡単だよ。
先程あなたは.モダン・シンセ・デサインには問題がふたつあると言いましたが、ふたつ目は何でしょうか?
いつまでも鍵盤とのつながりを捨てないことだ.というのも、僕が初めて使ったシンセの鍵盤部分はとてもひどくて、エフェクトとしてしか使う気になれなかったから。
当時、何を使っていたんですか?
EMS。僕は,そもそもキーボーディストじゃなかったんだけど.こいつのおかげで優位に立った。こいつを鍵盤楽器以外の何かとして使いだしたのは.イギリスでは間違いなく僕が最初だったからね。それまではみんな、いくつかおかしなサウンドが出せるオルガン程度良として使っていた。僕にはそういう使い方はできなかったんだ。技術的には可能でもね。それで違うことをやりだしたわけさ。
高度な技術が、えてして音楽的成長の妨げになると思いますか?
もちろん。僕はコードを弾かすにハーモニーを作りだしたものさ。一度にひとつのメロディを弾くことしか知らなくて。ほかの人のためにハ一モナイズされたコードシーケンスが必要だったら.ますひとつのメロディを弾き、それにかぷせてもうひとつ.さらにもうひとつと弾ていったんだ.ほとんど1音1音別々に弾きながら,何とかやり遂げたんだよ。こうして直感的に段階を踏んで作っていくと、意志決定の仕方もかなり変わってくる。手の筋肉の動きを考えに入れなくていいからね。“このコードのあとにあのコードをつなげたいなら,指はこんなに広けなきやならない”とか。
もしあなたが先生だとして、相当なピアノの訓練を積んだ生徒が手癖というバリアを打ち破ろうとするのを,どうやって手助けしますか?
それを乗り越えるにはスタジオが大きな役割を果たすだろう。音楽をリアルタイムで作らなくてもいい。絵画みたいに少しずつ積み重ねていけばいいものだと考えると,作業の仕方も変わってくる。いわば原子レベル----と言っておこう----で考えることかできるからね。スタジオの編集機材を使えば、音楽が存在するスペースの感覚を変えるのに役立つ。この考え方はクラシックには存在しない。我々はスべースを曲のひとつの要素として用いるのに慣れるているが,クラシックの教育を受けたミュージシャンの大半はそういうコンセブトをまったく持たない。
僕の若い友人で,バイオリンとビオラを弾く素晴らしい、プレイヤーがいる。僕のやっていることが大好きで,スタジオにやってくるようになった。その時から撲は彼女が受けた教育から抜け出す手助けをしようと決意したよ(笑)。で,彼女のためにたくさんのエクササイズを作った.中には異なる聞き方をするだけのために作ったものもあったな。例えぱ大半のクラシック・プレイヤー同様、彼女もプッシュされたタイミングでまったくプレイできないのに気付いたからね。
プッシュされたタイミングとは?
どんなファンクやソウルのレコードにも出てくる,4/4と同様に3/4も感じられるリズムのことだよ。アフリカから来た音楽にはすべてこのフィ−リングがある。だから僕はよくクラシック音楽を、アフリカを除外した音楽と定義するんだ。でもって彼女にはネヴィル・ブラザーズのレコードを渡して、“このレコードのべース・パートをビオラでやってごらん”と言った。やってみると彼女にとっては大きなスリルになったんだ。僕は彼女の音楽的入生を広げたんだ。
テクノ・ポッブからアンビエントまで,多くの活気に満ちたトレンドになっている音楽を,あなたはほかの人か取リ上げる前から自分の音楽に取り入れていまじたね。あなたがそうやってパレードの先頭に立っているのはなぜでしょう?
ビジュアル・アートのバックグラウンドを持って音楽をやるようになったので、他の入と同じような音楽を作ることは撲には不司能だった。だから,僕は機材をいろいろいじってどんな音が作れるのか試してみたんだ。これがほかの入とのいちばんの違いじゃないかな。多くの人はすでに聴いたことのある何かをやりたくてシンセを弾きだした。そしてすでに聴いたことのあるものを再現できさえすれば満足していたんだ。でも僕はシンセはまったく新しいことができる,実に魅力的な楽器だと思っていた。新しいことができれば満足し,それをさらに追求したんだ。似た意味で、僕はレコーディングを始めたばかりのころ、スタジオとはあらかじめ書かれた曲のトランスミッターのようなものだと考えていた。スタジオに入り,プロデューサーが多少いじって(音を)入れるだけだと思っていたんだ。でも実際にスタジオ入りして作業を始めてみたら“これは今まで聴いたことのない音楽を作れる”とわかったんだ。
ちょうど今も同じ経験をしているところだよ。グラフィックのプログラム“フォトショップ”を使ってよく作業をするんだけど、グラフイック・アート関係の刊行物はどれも“イーノがフォトショッブを使って作ったこれを見て!”という話で持ちきりだ。でCGアーティストの誰もがラッパスイセンに小さな水滴の乗った絵を僕に見せてくれるわけ。“何もかもコンピユーターで作ったんだぞ!ワォーだって”。いったいそんなことに何の意味があるんだい。正直言って僕は“フォトショップ”での20分以内の作業で“これはファンタスティックだ!どうしてほかの人は誰もこれをやらないんだろう?”と思うものを作りだした。でもみんなは未だにラッパ・スイセン栽培で忙しい(笑)。
最近の音楽の世界も同じですね。
そう。つまりサードパーティー・サンプルの使用が問題なんだね。この理由のひとつには,マシンがより複雑になっていることが挙げられると思う。変化のスビードがあまりにも早くなって、新しい世代の製品が次々出てくる。ついにみんな“もうこんなものを学ぶ暇はない。どっちみちすぐに新しくていいものか出てくるんだから”って思うようになってきたんじゃないかな。
でも違いを出すのは結局退屈な人達なんだ。撲も異常に早く退屈するたちでね,同じことを何度も繰り返していると気分が悪くなる。モノの例えじやないよ。本当に気分が悪くなるんだ。そうなったらほかの作業に移るか“パターンをひっくり返す方法を何とか見つけなきや”と考える。言うまでもなく,同じことを何度も繰り返すのが至上の喜びだという人は多い。世の中じゃそういう連中の本当の使い道があるんだろうね。
ミュージシャンには、ある限界を克服するために繰り返し練習するよりも、自分のアイディアとともに自分の限界をうまく利用するようアドバイスをしますか?
技巧をこらすのにも確かに価値はあるよ。君はそれを2段階のプロセスと考えているのかもしれないね。ある人違は新しい言葉を発明するが,ほかの入達はそれを使っていかにうまく話すかを学ぼうとする。ボキャブラリーのエクササイズをしている人は,非常に重要なことをやっていると言える。ただし僕はその中のひとりじゃないってことさ。僕の楽しみは,ボキャブラリーに合わせてほかの言葉を考え出すところにある。カレッジ・アーティス卜みたいなものだね。ほかの人が作った葉書を,ほかの人が撮るった写真の隣にくっつける。それから2枚の上に絵の具を乗せてつなげてしまう。
なぜ我々の世界ではこうしたポストモダン的アプローチが,自分の国の文化を深く掘り下げるより面白いのでしょうか?
必ずしも面白いと言うつもりはないよ。同じくらい面白いのは,ライ・クーダーやおそらくニール・ヤングのように,同じ溝をいくつも掘っていながら,いいものを作り出す人もいるという事実だ。何が変わったかといえば,探したり見たりするダイナミズムの幅が広がったんだ。今や作品の幅においてはサミュエル・べケット並の音楽スターも存在し得る。一生同じところにいて,自分のやることがとんどん上達していくんだ。もっともそういうことをしていると,変な小うるさいやつにもなり得るけどね。