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interview 1994

 


 

 

Brian Eno talks about miles davis

 

 

 マイルスとその世界。言うまでもなく、私の答えはこうである。初めて私がマイルス・デイヴィスを聴いた時、彼がどんな人物なのか全く見当もつかなかった。彼のごく初期の作品を聴いた時にも同じ体験をした。私は『ビッチェズ・プリュー』を起点に、それ以前の作品を遡って聴いていった。当時一緒に住んでいた私の友人は、『ビッチェズ〜』を発売日に買って家に持ち帰ってきたのはいいが、気に食わずにごみ箱に捨てて出かけてしまった。私はごみ箱を漁ってアルバムを発掘し、遂に友人が私の好きなアルバムを買ってきてくれたことに感動を覚えた(私はホレース・シルヴァーやチェット・ベイカーをこよなく愛する男だった)。その友人は、オス□出身の男で、どこから見てもただの太ったヒーターのエンジニア<だった>。
そしてやっとマイルス<初期>作品を聴き終えた時、それが『ビッチェズ〜』を創ったのと同じ人物だとは全く思えなかった。ああ、歴史を紐解くことの楽しさよ…

*非マイルス・デイヴィス的な方法でマイルス・デイヴィスを考える

<1993年ワイアー誌12月/1月号より>
マイルス・デイヴィスを聴く時、あなたは彼の音楽が占める割合はどれくらいで、その背景が占める割合はどれくらいあるのだろうか?言い方を変えよう。もしマイルス・デイヴィスということを知らずにあなたがマイルスの音楽を聴いたら、あなたの耳には何が残るのか?》私がいう背景とは、レコードのグルーヴには物理的に含まれていないもの全てを指すのだが、マイルスの場合はこの背景というものが多分に作用しているように思う。誰もが彼は偉大だと話しているのを聞いているために、あなたの知識の中には初めから、それが先入観として存在している。これにより、彼の音楽を聴く時のあなたの感覚は修正されてしまうのだ、更に、そこには他の情報が多数絡まっている。魅力的で存在感のある男。ロマンティックなマイノリティのひとり。チャーリ一・パー力一と共にプレイしていた。いくつもの世代の架け橋となった。あらゆる中毒をくぐり抜けた。シシリ一・タイソンと結婚した。
ドレッシーだった。ジャン・リュック・ゴダールに好かれた。陰を背負っていて、それがまたクールだった。自分自身の作品についてはほとんど語らなかった。云々。
これら全てのことが、彼の音楽を聴く時に影響を与えているのは確かだ。つまり、もし彼がオスロからやって来た太ったヒーターのエンジニアだったとしても、彼の音楽を聴いた時に同じように感じるだろうか?音楽を聴く時、あなたはその音楽にまつわる全ての背景をも一緒に聴いているのではないだろうか?手にしている情報こそが重要性を持っているだけで、その重要性とは音楽やアーティストが異なったとしても、意味を成すものなのだろうか?

マイルスは知性的な男だった、と誰もが言う。それが彼個人のカリスマ性のパワーに対する意識を増大させることになったのだ。特に後年の彼は、トランペットのテクニックが衰えてきているという世間の噂に敏感であった。おそらく彼は自分に言ったであろう。「この人たちは音楽よりも背景に耳をそばだてて聴いている。だから私も自分を第一級の背景屋だと思えばよい。私のアートとは、トランペットを突き詰めた限界から生まれたもの、または録音作品として聴けるものだけではない。世間が見ている私や、私の人生やカリスマ性、つまりマイルス・デイヴィスの物語に密接に関係した数多くの経験をも指しているのだ」と。このシナリオの中では、彼の<音楽>やその波動は全体の経験のごく小さい範囲に成り果てている。背景を膨らませること−−パッケージや配送システムや周囲の雑音や目まぐるしく変わる環境−−とは、それ自体が芸術になってしまうかもしれない。香水のように……。

 とりわけプロの批評家は、このような提言に対して異議を唱えるだろう。彼らは音楽そのものが本質的かつ客観的に批評性を内包しているという見解の元に価値を測ることを正当化し、心血を注いできた。真価(True Value)やその他のものを大文字で固有名詞化した上で追求する中で、彼らはこういった方法がアーティストを<操作する>ものであるという考えを不道徳だと跳ねつけている。彼らにとってはシニカルに聞こえるかもしれないが、つまり彼らは信じたいのだ。これこそが真実(TheTruth)で、サウンドの中で研磨された魂の純粋な表現だと思い込みたいのだ。彼らはそれを<そこから切り離し>た<現実>にしたいのだ。しかし今、彼らはその価値とは彼らがどれだけそれについての物語の偽造に加わる準備をさせられていることに関係しているかというメッセージを受け取っている。恐ろしい話だ!価値を創造する共謀者であるという事実を発見することは作り話に捕らわれていたことに他ならない。「もし自分自身に対して同じことをしたなら、一体それに何の価値があるというのだろうか?」。

 数年前にテレビで見たことを思い出す。インドネシアのシャーマンが病気の人々を治療していた。人々の身体に手を突っ込み、彼曰く病気の原因だという血まみれの布を取り出す。全ては強烈な呪術的儀式の後、薄暗い灯りの下、煙ったあばら屋の中で行われていた。西側のチームは赤外線カメラを使って彼をフィルムに収めた。もちろん、彼が奇術のトリックをしているのだということは明らかにわかった。結局、彼は病人の身体から何も取り出してはいなかった。つまり彼はインチキに過ぎないのか?おそらくは、そうだろう。しかし彼の患者は皆、快方に向かうのだ。彼は背景によって治癒を施していたのである。人々が何らかの方法で自然治癒力を得られる心理的な領域を作っていたのだ。ボロ布はただの小道具に過ぎない。トラ
ンペットを持ったマイルスは、我々の集合的なイマジネーションの中で偉大な音楽的経験を体験することができる場所を作るための小道具だったのか?私はそう思う。ありがとう、マイルス。そしてそれに荷担した全ての人にも。

 


ブライアン・イーノ
沈黙に戻れ、無に戻れ。

 



出典:TheWir magazin.Dec/Jan1994.(翻訳:如月ゆい)
TOWER BOUNCE CLASSICAL&JAZZ ISSUE12


( ヒロキ )