
interview 1994
roxy music
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1972 1973 1994
| イーノはジャンルを越えた口キシー・ミュージックの初期のサウンド作りに.ステージとスタジオの両方で大きな役割を果たしており,それはアルバム「口キシー・ミュージック」(72年発表のlst)の「ヴァージニア・ブレイン」や「ジャマラマ」(73年発表のスァースト・ライヴ盤「ビバ!口キシー・ミュージック」に収録)を聴けば明らかだ。しかしイーノが,自分のソロ・デピュー・ブロジェクトでバンクの原型でもある「ウォーム・ジェット」(73年)をクリス・スベディングやロキシーのフィル・マンザネラとともに作った時,彼はすでにバンドを抜けることを決めていた。「その決意は固く,復帰する気はさらさらなかったね」 テクノロジー面で,この時期における鍵となるイーノの機材というと,EMSの“スーツケース”シンセで,彼は多くの機材とともにこれを使い,ステージ上のロキシー・サウンドを変形させていった. |
ステージでは自分の股計した小さなミキサー,それに2台のテーブ・レコーダーを置き,それをエコーとかいろんなことに使った。そしてステージ上の楽器がすべて僕のミキサーにきてたんだ。ステージで,ライヴ演奏のブロデュースをやっていたようなものだね。ああいうことをやったのは僕が最初だったと思うよ。僕が楽器をエフェクトに通さなからたら,そのままの形でミキシング卓へ行ってたんだ,もっと大きな音でだけど。でもそれを途中でさえぎってエフェクト・センドのツマミを回し,僕の機材の方へ送ってやると,フィルターをかけてサウンドを変えたり,リング・モジュレーターに通して歪ませたり,バルス変調したり,いるんなことができるようになった」「僕が“手当て(トリートメント)”と呼んでいるこれらの処置を受けてから,ミキシング卓へと送られていたんだ。エンジニアのところにはオりジナルのサウンドに加え,僕がいろいろ手をほどこしたものが行くわけで,もし僕がそうしたければ僕の信号だけを卓に送り,オリジナルは完全に無視したよ。
| その先駆的な初期の時代から,イーノとフェリーの間には溝があると言われ、互いに口も聞かない状熊が何年も続いてきた。しかしどういう運命のいたずらか,ふたりは今年の初めにカリブの小島でばったりと出くわし、それが予想外の結果をもたらしたのだ。フェリーのアルバム「マムーナ」中の1曲で共作が実現したのだ−−最後に一緒に仕事をした時からすでに20年以上が経っていた。 |
david bowie
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1976 1977 1978
| デヴィッド・ボウイのベルリン滞在中,1977年に八ンザ・スタジオでレコーディングされた「ヒーローズ」は、ボウイ/イーノによる共同作業が見せた頂点であり,その影響は今もなお及んでいる。ボウイとトニー・ビスコンティがブロデュースにあたった「ヒーローズ」では,イーノとロバート・フリッブが作り出す驚異的なギター・エフェクトがフィーチャーされていた。そレてここでも,前出の“スーツケース”アナログ・シンセが使われていたのである。 |
僕はギターをリング・モジュレーターに送って周波数を2倍にしたり,パルス変調したり,フィルターをかけたりと,いろんなことをやった。フリッブ自身も音のことをよく考えている男だから,レコードで聴けるすべてが僕の手によるものというわけじゃないが,彼が僕のシンセに接続して,僕が彼のサウンドをいじくり回すってことをよくやったね。リング・モジュレーションというのはそれ自体ひとつのテーマで,みんなはあまりこれを使わないけと,僕はこれがすごく魅力的なものだってことがわかったんだ。何かをパルス変論できるというのは非常に面白い。リング・モジュレーターの片方に低周波発振器を,そしてもう片方に楽器をつなけば,バルス変調の効果が得られる。もし入力側のパルス波形を矩形波に変えればすごくシャーブなバルスになり,サイン波にすればぐっとソフトなバルスになるんだ。スピードを変えるとまた別の効果が得られよ。それによって風変わりなノン・ミュージカルのサウンドになるのさ。
talking heads
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1978 1980 1981
| サンプリング(テープレコーダーによる)を駆使した斬新な「ブッシュ・オブ・ゴースト」(81年)をはじめとするデヴィッド・パーンとのコンセブチユアルなブロジェクトだけでなく,イーノは「モア・ソングス」(73年)「フィア・オブ・ミュージック」(79年)「リメイン・イン・ライトJ(80年)といった重要なアルパムのプロデュースを通じ,卜一キング・ヘッズが世界的なビッグ・アーティストに成長する手助けをしている。 |
誰でも新しいアイディアには不安を抱くものだ。でも僕は人のアイディアに対する自分の感覚を不安に思ったことはない。実際,僕はそれに対するとても強い意見を持っているわけだから。だから素晴らしいアイディアがある時はいつも.僕はそれをもっと追求するよう,積極的にブレイヤーを励ますんだ。デヴィッド・バーンと一緒にやっている時はそういうことが多かったよ。彼がジャムでキター・パートを弾き,僕かそこにイカレた4小節のバターンを発見したりとか。僕はギターが弾けないからそれを覚えると,何度も何度も彼に歌って聴かせるんだ,彼が弾いていながら自分で気づかなかったやつを,自分自身できちんと覚え直ずまで何度もね彼らがユニークな方法でやったことを,今はみんなが真面目に捉えるようになっている。自分だ
けができることっていうのは,しばしば間違っていることのように見えるものさ,他の連中がそれをやっているのを聴いたことがないわけだから。
u2
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1984 1991 1993
| U2のスタジオ・アルバムのうち最初の3枚ではスティーヴ・リリーホワイトが素晴らしい手腕を発揮し,このバンドのステージにおける生き生きとした姿とエネルキーを見事に捉えてレコードに記録している。しかし1984年にはもう.バンドはさらに奥深いところを探り,それまではまだ未拓のままだった,彼らの音楽におけるもっと複雑な要素に取り組む時期にきていたのである。ブライアン・イーノは,カナダ人のミュージシャン兼ブロデューサー,ダニエル・ラノアとともに,それを探る理想的な人間だとわかったが,「焔(ほのお)」(84年)のレコーディングに取りかかる時,イーノはその作業がうまくいくかどうか疑間を感じていた。 |
正直言って僕が,バンドとしての彼らを潰してしまう危険性があると思ったんだ。彼らはすでにバンドとして成功を収め,超大物になりかけていた。じかし,もし僕が彼らと一緒に仕事を始めたら,連中が何か芸術的で難解なところへ行ってしまい,それが彼らを破滅に導くんじゃないかと思ったわけだ。それで念のために,優秀なブロアューサーでグルーブとの仕事に才能を発揮するダニエル・ラノアを連れてきた。だからたとえ僕との仕事がうまくいかなくても,レコードが安全で冴えた入間の手に委ねられることはわかっていたんだ.ダニエルと一緒に仕事を、すると,僕は自分のやりたいようにやらせてもらえるんだけど,連中がおいてけぼりをくらって、“おいおい,俺たちのレコードでいったい何が起こってるんだい?”と考えたりすることはない。後でわかったんだが,彼らは実験に大満足だったんだ。
イーノが考える,ラノアの最大の強味とは何だろう?
彼はみんなを励まし,彼らに何でもできるという気分にさせる雰囲気を作り出すんだ。その方法のひとつがこれから起きるであろうことに注意を集中させるというものだ。例えば彼がギタリスト.つまりエッジと作業をやっているとすると,彼はこう考えるだろう−−“そう,彼はこのキターを弾いている。しかしもう少しするとたぶん、他のギターで何かをやりたくなるはすだ。だから僕は,このラインをデッキのチャンネルにつないでおかなくちゃいけない。そうすれぱ彼がやった時,僕もそれを録音する準備ができている”とね。ダンと僕は,レコーアィングのブロセスをできるだけ連続したものにする,そんな方法を発展させるために多くの時間を費やしたんだ。
考えうる,スタジオにおける最悪のシナリオは,バンドが勢いついてのっている時に,頭の鈍いプロデューサーが“スネアの音をちょっと聴かせてくれるかな?”なんて言ったりすることさ。ダンはそんな点では実にブロフェッショナルだ。彼は早いうちにスタジオへやってきてすべてのヘッドフォン・ミックスをチェックレ,ミユージシャンの気が突然変わって他のことをやりたくなってもセッション全体がストッブすることのないようにしているんだ。
| 「アクトン・ベイビー」(91年),そしてとりわけ「ZOOROPA」(93年)でU2は.ロックにおけるスタジオ即興演奏という新たなスタイルを打ち立て始めた。バンドはあらかじめ書かれた曲を持ってスタジオ入りするが,ほとんどの曲はせいぜいスケッチ程度のものだ−−実質的には真っ白のキャンバス,イーノとラノア,そレて共同プロデューサーのフラッドとU2は,その上に音の絵の具を塗り付けていくことができるのである。 |
「ZOOROPA」を始める時バンドの連中にスタジオで定朗的に即興演奏をやろうと提案したんだいろいろな理由から彼らは即興演奏をやらなくなっていた。それで僕はこう言っだよ,“曲を作ってるじゃなくて映画のサウンドトラックを作っていることを想像しよう”とね。これをやるといつでも自由になれる。というのは,映画のサウンドトラッくは中心となる核を持つ必要がないから−−映画そのものが核なんだ。こうすると,純粋な雰囲気の曲を作ることができるし,彼らの場合,すこくいいものを引き出すことができる。僕らの間では,ダンが実際的な形の部分を受け持ち,僕が概念的な部分を受け持っていて,どっちが欠けてもいけないんだ。両方をきちんとコントロールしないとね。