
interview 1993
そもそも14年振りのボップ・ミュージック・シーン復帰アルバム「マイ・スケルチィライフ」を発売中止にしちゃった理由は何なんですか。
あーっ。今日だけで4度目の同じ質間だ。同じ話を繰返す僕の身としては、地獄なんだけどな。
でも私は日本盤のライナーを書いたにも拘らず、幻の原稿にされてしまいましたからねえ。知る権利は当然あると思いますが。
なら仕方無いな。あのアルパムは91年6月に完成した。で91年9月にリリース予定だった。ところがレコード会社は、同時期に出すレコードが多過ぎるから翌年2月に延期すると言ってきた。だけど僕の返事はノーさ。だって翌年2月には、自分は別の音楽を演ってるに違いないじゃないか。だからいっそ発売中止にしてそのまま作業を続け、翌年9月に何であれその時に出来てるものを出そう、という事にしたんだよ。
作品の出来に不満があったわけじゃない、と。
うん、それは無い。ただ、レコード制作という作業はその時その時の世界のありとあらゆる他の出来事と、切っても切り離せないものであるはずだからね。レコードとして後々まで残るにせよ、作る時は今の瞬間を映し出したものであるぺきだと僕は思う。今、自分が何を目にし、何を思うかを表現したものとして----実は「スケルチイ」を作ってる間に、自分の中で何か新たなものが生まれた感じがあった。と二ろが締切に合わせて作らねばならなかったので、その三つの音楽断片はお蔵入りにした。そして延期になったので、その断片から新たなものを作り始める事にした。それが「ナーヴ・ネット」の基本アイディァなんだ。
だけどですね、プラィアン・イーノ久々のポップアルバムだったわけですよ。制作動機は何だったんですか。
僕は自分に対してそういう問いは発しないんだよ(笑)。面白そうだから始めただけで、「こういうレコードを作るべきか?」なんて考えない。
うん。じゃあ「スケルチイ」が自分自身にとって久々のポップアルバムである、という点は認めますか。
うん。それはそうだと思う。
世間では未だ「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェツツ」から「ピフォア・アンド・アフター・サイェンス」というポップ時代の作品群が高評価を得てる事は、あなたも自覚してるでしょ?そうした意識があの作品に関与してますか。
いや。残念ながら、僕は他人の評価に添って動く事はあまり出来ないんだ。そうじゃないと未だに「ウォーム・ジェッツ」を作り続けてなけりゃいけない事になるじゃないか(笑)。他人からイイ評価を受ける事はありがたいよ。でも僕としては常に、「信じて見守っててくれ、次は違う事を演るから」って言い続けるしか方法は無いんだ。同じ事を延々演り統けるわけにはいかない……
だけど、前に演った事をまた演って欲しいと願うのが常人の心理だからね、難しいよね。今後僕が演ろうとしてる事を励ましてくれる人は、とても少ない。まだ目に見えない、ハッキリしないものだからね。僕がアンビェントを始めた時、誰もが「どうしてこんな妙ちきりんで退屈な音楽を演るんだ?」って言った。ところがその後歴史は移り変わって、今じゃ皆「もっともっとアンピェント物を作ってくれればいいのに」って言うんだからね
俺はそう思わないですけども。
それは残念だ(笑)
では「スケルチイ」と「ナーヴ・ネット」の決定的な相違点とは、何になりますか。
「ナーヴ・ネット」の方が混沌としている、という事だね。合理性を欠いている。
合理性とは、所謂ポップ・ミュージツクとしての定型って事ですか。
いや、聴さ手として受け取るものの間題だな。僕はこの頃、ますます物事混乱してるのが一番と思うようになってね。複雑でわかりにくい方がいい。聴いた時、「あれ?ステレオの調子が悪いかな」と思うような、そういう反応が最高だ(笑)
何故に混沌を求めるんですか。巷のあらゆる音楽に辟易してるからですか。
もう本当死にそうだよ。何もかもコントロールされ過ぎの、完全制御の音だ。現在出てきてるキーボード&シーケンサー系列の音楽のほとんどがもう、気が遠くなるほど退屈だね。整理整頓の行き届いた高度に技術的な音楽……バッハと同じだよ。聴こえてくるのは綿密な計算だけさ。だから昔からバッハが嫌いなんだ、
僕は。西洋の音楽は本当に嫌だ、アフリカの音楽はそれが全く無くて最高だね。残された空間に物凄い生命力があるんだよ。テクノやらハウスやらってテケテケテケテケテケ。……ああ黙れえ!と叫びたくなる。喋って喋って喋り続ける人間と同じだよ。それが今の……音楽だよ、不安だから一瞬だって止まれないんだ。
「ナーヴ・ネット」を「Where-am-I-ミュージック(僕はどこにいるんだという音楽)」とあなた自身形容してましたけど、それは巷に流れる音楽すべてを拒否するという意味ですか。それとも自分自身のスタンスと過去のキャリアに向けられてものなんでしょうか。
んー、音楽を聴いてるときに自分自身こういう問いを発するのが好き、ってことなんだよね。自分はどこにいるんだ?変な世界に入り込んでしまったがここはどこなんだ?僕とどういう関係があるんだ?ーーぼくは音楽ってこういう疑問を抱かせるものだと思ってるんだよね。音楽とは、即座にそれがなんなのかわかるようなものではない、全体像が瞬時にして見えるようなものではないと思うんだ。むしろ聞き手を呼び込んで、空白の部分を埋めさせるようなものだと思うんだよね。
私が聞いて思うに、あまりにも様々な音楽スタイルを「なんでもあり」精神で合体させたあげくの模倣と矛盾だらけの音ではないかと。しかし、核なんてどこにも存在してないという。
その通り、核は存在しないよ。
音楽に核なんて存在しない、いう事実を逆説的に実証したかったわけですか。
そう、外縁は多々存在するが、核はないと。3年前に出版された米作家ジョエル・ガロウの「エッジ・シティ」が面白かったんだ。人口が都市から郊外に流出し、郊外は郊外で美術館もジムもテニスコートも備わって独自の文化圏になってしまった。今ではもう郊外と都市の関係性も途絶えてしまった、死に絶えた都市部の周囲を郊外が輪環状に囲んでいる-----
この図式は文化全体に適応するんじゃないか、と僕には思えた。
我々は今、もはや伝統的な文化の中心に対する信頼を失っている。ジョット、ワーグナー、ベートーベン、ゲーテ、セザンヌ、ピカソの系列が文化の中心で、それ以外は二次的重要性しかない郊外みたいなもんだ、的な古典的図式はもう崩壊したんだよ。
しかもココ・シャネルを始め、ありとあらゆるものをメインストリームの文化として包含するようになった末に、ふと気づくともはや一方の中心線はなくだだっ広い原っぱが存在してるだけなんだ。もう別ものさ、このはらっぱの中では誰でも好きなように点を結んで自分なりの文脈で線が引ける。しかもそのときのストーリー次第で、線の方向が自由に変えられるのだ。もはや人々は伝統的な一本の線に価値など感じない。というわけで、現在進行中の文化状況は様々なストーリーが共存し、ストーリー間には各各共通点と相違点、矛盾点がある。
はい、それはよくわかりますけ----
でね、いかなる芸術作品も本質的価値などなにもない。価値とは常に我々が与えるものなんだ。国際経済が金本位制なのと同じさ、べつに金が地球上で最も重要な物質って訳じゃない。単に人々が金が重要なんだと信じてるからに過ぎないんだよ。ピカソには価値があるという決めごとの成立してる文化の中に我々がいるからに過ぎないんだよ。
はい、だから、、
それがポップ・レコードを作ることとどういう関係があるんだよっ、と言いたいんだろ(笑)。つまり、テーマや核や中心がなければならないという観念を捨て去ることなんだな。組織化された一元的体系を破棄すること。もうそんな観念は信用しないと僕はいってるんだ。僕は相違点と不確実性だらけの宇宙を信じてる。確かなものなどなにもない世界をね。