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interview 1992


 

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 昨年、「 My Squelchy Life 」というタイトルのアルバムをリリースする予定だったと聞いていましたが?

 

 最初1991年の9月にリリースされるはずだったアルバムが、1992年2月に出ることになったんだが、それでは間が空きすぎていた。遅れてリリースするのは好きではないんでね。それで、自分の意図しないアルバムを出すことは出来なくなってしまった。アルバムは、僕にとってはある程度コンテンポラリーなものでなくてはならないんだ。だから作業をそのまま続け、いつもそうなんだが新しいものを発展させ古いものが失われていった。今回はそれが特に多かったんだ。

 

 「 My Squelchy Life 」に収めるはずだった曲も何曲かは残ったのですね?

 

 「My Squelchy Life」、「ジュジュ・スペース・ジャズ 」、オリジナルアルバムでは「Littie Apricot」というタイトルだった「ディセンター」の3曲は残しておいた。この3曲は新しい方向を示し始めていたので「 My Squelchy Life 」を作り終えたと思った後も、スタジオへと戻って、次のアルバム用にと思いながらその方向の曲を作り続けたんだ。リリース日がキャンセルになったとき、それらの曲は次ではなく現在のアルバムに入れるべきだと思ったんだよ。自分にとって現在のものではないアルバムをリリースすることなど、もうしたくないからね。

 

 アルバム・タイトル「ナーヴ・ネット」とはどういう意味なのでしょうか?    

 

 これは神経系ネットワークの考えに基づいていて、物事が互いに網のように絡まっている様を表しているんだ。神経ネットワークは我々の脳の働きと同じだと考えられており、ニューラル・ネット(神経系網)は新しい世代のコンピューターの呼び名なんだが、これは現在我々が使っているどのコンピューターとも違った働きをするものなんだ。だが、僕はあえてニューラル(神経系)ではなくナーヴ(神経)という言葉を使った。これには、@)ニューラルに近い意味だ、A)英語の言い回しで“What A Nerve”(なんて心臓だ)の意味がある、といった2通りの意味があるからなんだ。

 

 アルバムに収められている曲には、それぞれ異なったアプローチを行ったのですか?また、それは意図的なものなのでしょうか?

 

 そういう風には考えず、ただ演るだけなんだ。そして何かがうまくいきそうならそれを続けるし、そうでなければ没にするか、うまくいくように他のことをやってみる。“オーケー、今度は別のアプローチでやってみよう”とは考えないんだ。壁に当たってどうにもならなくなったときだけは、新しいアプローチをとって別の結果が生まれるかどうか見てみるけどね。ほとんどの場合、フィーリングでやって、それを知性で評価するんだ。この2つは互い違いになるものだよ。

 

 それを音楽的なコンテクストと考えたことはありますか?

 

 僕は、音楽について決して考えないし、それが問題だったことはない……僕が音楽を作る時、他の音楽については考えないし、自分のやっていることしか考えていないので、それが他の音楽と似ているかどうかはわからないな。

 

 ハーモニーやコード進行について考えるミュージシャンは大勢いますが?

 

僕はそういうことは考えないが、その種のバックグラウンドがないから、どっちにせよわからないだろう。

 

 アルバムにどういうものを入れるかを決め、それが他人の聞くためのものであるということは、知的に分析するとどういうことになるのでしょうか?

 

 自分のやっていることが、文化を一つの断面であると自負していたいね……断面は一つだけではないからね。僕のやっていることがそのうちのひとつでありたいし、どうにかして切り開いていっているんだろう。僕は、自分と同じ種類の知性と関わりたいと願っているんだ。要するに僕は自分自身に語りかけているわけだが、人間とはそういうものだし、そうすることによってうまくいく。他の誰に語りかけているわけでもない。自分自身に語りかけ、今度は他の人にもそれをわかって欲しいと思うものなんだ。

 

 ほとんどの準備は、スタジオ入りする前に行うのですか?それともスタジオで全ての作業をするのですか?

 

 僕はいつでも様々な準備をしているよ。音楽の仕事をするのはスタジオの中だけで、外では音楽の仕事はしない。自分のスタジオを持っているから、そこにいれば、例えば音を様々なエフェクトに通したりといった実験ができるし、いつでもレコーディングできるように準備を整えている。だから、何かしら面白いことが起こり始め、それが複雑でおそらく僕には再現できないだろうと思ったら、それをレコーディングし始めるんだ。

 

 準備とレコーディング・プロセスとは分けたくないということですか?

 

 もし準備というものがあるなら、それはただ考えているだけのことで、僕はいつもやっていることなんだ。ただし、それは楽器を持って行うことではない。音楽とはほとんど関係のないことで、単に“僕はどこにいるんだ?今日は何日だ?現在の文化の何か特別なことは?僕に何ができる?こんなことをして一体なんだというんだ?”といった、一般的なことしか考えていない。そういう考えがすべて僕にとっての準備となるんだよ。

 

 そうしたものを音楽に置き換えるべきだと考えているのですか?

 

 そんなことはない。それについては非常に広い意味で捉えているし、そこが僕が他でもない音楽を職業として選んだ由縁ではないかな。“僕たちはどこにいる?文化は何のためにある?なぜこのようなことを自分はやっている?自分は一体何から抜け出そうとしているのか?何か他のことをやるべきではないのか?”……こうした、いつも自分自身に問いかけている質問について、僕がわかっていることは何か。
  こういう質問に関して僕がどう答えられるかというと、確かなことは、関連性のあるものと無いものがあるということだよ。それが準備なんだ……つまりそれによって、自分が取り組まねばならないオプションの数がかなり制限されてくるわけだ。スタジオで話していると、誰もがオプションを星の数ほど持っているけど、僕にはかなり少ない数しかない。それが不用で、その結果何が残り、それが取り組むべきものなんだということが僕にはわかっているからね。意味のあるなしに関わらず、こうして自分の持つオプションを制限することこそ、もっとも役立つ準備なんだ。特に現代の機器を使う者にとってはね。シンセサイザー・プレイヤーがほとんど死に絶えてしまったのは、そのやり方を知らなかったからだよ。彼らは際限なく続く選択の間にはまり、どうやって選んだらよいのか全くわからないんだ。彼らは選択できるほど知性的な機器を持っていないので、ただボタンを押し、すべてのプログラムを使ってみることしかできない。全くバカげているよ。特に、今じゃスタジオで2万5千もの音を作れるのは当たり前だからね。それだけのオプションをひとつひとつ試すほど人生は長くないから、他の方法で焦点を絞らないといけないんだ。

 

 このオプションの迷路から抜け出すためのアドバイスがあるなら、それはどういうことでしょう?

 

 すべてのプログラムを試してみている人にアドバイスしたのは、彼らに欠けているのはサウンドではなくアイディアだということだ。全部のプログラムを試すのではなく、自分は本当は何がやりたいのか、少し考えてみるんだ。残念なことに、無能な人間ほど複雑なキーボードに魅せられるもので、さほど知性のない人間が膨大なオプションを使って仕事をするというのは最悪の組み合わせだね。そういうプレイヤーは“ボタン押し”の精神しか持ち合わせていないのだから。
 これはキーボード・メーカーの問題でもあるんだ。現在の文化ではオプションが多いほど良いことになっていて、オプションが増えることが進歩の形態だと思われてきた。僕は、この意見にはまったく反対だね。僕が考える進歩の形態とは“インターフェースの容易さ”が増すことなんだ。フェンダー・ストラトキャスターは非常にシンプルなギターだが、それを弾く人はほとんど皆、他のギターを弾く人より自分の楽器を深く理解し信頼している。その理由は、ストラトのオプションの数が少なくて、しかもそれがすべて意味のあるものだからだ。 “トーン・コントロール”や“ヴォリューム・コントロール”は本当に役に立つものだし、5つのスイッチ・ポジションで本当に違いが生まれる。人間には、そうした判断を下して、理解し、そしてそれを有効に操作することができるはずだよ。
 デジタル・キーボードの問題は、たいていのオプションがほとんど意味のないものだということだ。覚えていられないし、ほとんどは関係のないものだからね。デジタル・キーボードで可能なことは、ミュージシャンの要求の結果ではなくて、キーボード・デザインにおける単純な可能性にすぎないものが多い。だからエレクトロニック・キーボードとプレイヤーとの間のインターフェイスは、ギタリストに比べずっと劣ったものだ。キーボードは貧しい進化をとげた楽器であり、テクノロジーによりオプションが簡単に付加できるという単純な発想のはずみによって、このように進化してしまった。日本のメーカーは、この問題に関しては完全に失敗したと思うね。
 僕の観点からいうと、イーヴンタイドH3000シリーズ・ハーモナイザーはとてもいい楽器だと思う。そうした問題に取り組むことに成功していて、スイッチを入れるとすぐに何かが起こるように設計されているんだ。一番必要と思われるオプションのプログラムは、それぞれがいつも使用できるようになっている。これを他のシンセサイザーと比べてみるといい。シンセのオプションはいつも同じ場所にあり、オプションの序列といったものはないが、これが楽器においては非常に重要なことなんだ。単純にはずみに従ってそれを止めず、デザインの全体像をもう一度見直すことをしなかったことの結果なんだよ。なぜ最近までシンセサイザーにはトーン・コントロールがなかったのか。どんな電気楽器にだって、もっと音を明るくしたいとか暗くしたいといった欲求は生じるはずなのに、それをシンセサイザーで行うには音のアーキテクチュアに入り込むしかないんだ。

 

 『ナーブ・ネット』でもDX7を使っていますか?

 

 ほとんどそれ1台で済ませたよ。シンセサイザーをたくさん持っていたことはないんだ。これまで僕が持っていたのはEMS、ミニモーグ、DX7、それに不思議なノイズを出すのに最適なプロフェットVS、この4台だけだ。VSはそれほど使ってないんで、実質的には3台のシンセサイザーでやってきたことになるね。

 

 DX7だけしか使わないことで、オーバーダブの際に問題はなかったのですか?

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 なかったよ!最初の理由として、僕は自分の音はすべてDX7でデザインするわけだけど、あの楽器にはそうできる信頼感が十分あるんだ。2番目の理由としては、僕はシンセサイザーから出る音をそのまま使うことはほとんどない。そうするにはあまりに悲惨で不適当な楽器だからね。シンセサイザーは、エレクトリック・ギターの“弦”の役目を果たすと思っている。弦の音だけを聞くととてもつまらない音だが、そういうことはまず無くて、ピックアップ、トーン・コントロール、エフェクター、アンプ、そしてスピーカーなどを通して使わけで、それらで音が作られるわけだ。僕はいつも、シンセサイザーの音はギターの弦で、自分が実際に出した音のほんの始まりだと思っている。だから、様々なものに通すんだ。僕はプロセス・デバイスをたくさん持っているからね。最近使った物では、サンズアンプがある。とてもよくデザインされたマシンで、アンプの様々なコントロールをシュミレートする事ができるから、シンセサイザーの音を豊かにするのには最適だよ。シンセサイザーは本当に実体のない、ボディのない楽器なんだ。ボディがあるのはスピーカーを通る時だけで、そこではじめて音が物理的なものになる。それまではすべてエレクトロニクスだから、動いている原始の数はかなり少ない。ところが物理的なものになると、たくさんの分子が動いている音を聞くことになるので、かなり違いがあるし、予想のつきにくい状況になる。アコースティック楽器は、本質的には物理的なもので、ギターは長い1本の金属が巨大な木の塊の上を動くことで始まる。それには何百万もの分子が作用していて、その分子は温度や圧力といったいろいろなものに敏感に反応するんだが、それらはすべてシンセサイザーにとってはありがたくない要素ばかりなんだ。
 僕はシンセサイザーのボディを作ろうと、マシンをいくつかデザインしてみた。9つのスピーカーを巨大な箱に収め、それぞれのスピーカーに管が付いているというものもあったんだ。それぞれの管をチューニングすることができ、音自体のフォルマント構造を作り上げることができる。例えば、アコースティック・ギターを弾くと、聞こえるのは元々の音だけではなく、その楽器からのいろいろな色合いも聞こえるだろう?そしてその色合いは楽器の音の範囲によってコントロールされていて、これは定在波の長さもコントロールする。ピアノ、ヴァイオリン、ギターなどの通常の楽器のフォルマント構造は、どれも皆とても複雑だ。だから、同じヴァイオリンでも他よりも大きな音が出る音程があって、それがヴァイオリンの個々の個性を作っているんだ。ストラディヴァリウスがあんなに素晴らしいのもEとFの間のどこかにあるウルフ音(ヴァイオリンなどで、共鳴胴の欠陥によるきしり音)のせいではなく、フォルマントを低いDまでなんとか下げられたからなんだ。
 もちろんシンセサイザーにはこういった問題はないが、その結果生じる色合いも当然ないわけだ。僕が発明した、カラリング・ボックスと呼んでいるスピーカーは、シンセサイザーにフォルマント構造を取り入れる一つの方法だから、音はシンセからアンプへと行き、それから管が上に付いている小さな9つのスピーカーすべてへ行くんだ。スピーカーはどれもオフにしたり逆相にできて、それによって特定の周波数で“ピーク”ではなく“デップ”(落ち込み)を生むことができるんだよ。素晴らしいマシンだと思うし、大きなスピーカーを使わなくても誘導コイルを使えば電子的に処理することができるんだ。僕のスピーカーに対する関心はその楽器自体がいい音を出せるようにすることにある。それは、シンセサイザーのなんたるかをもう一度考え直す必要があると思う。まずはボディを作らないといけないよ。
 もう一つのアイデアは構成要素をすべて取り換え、1〜2%だった信頼性を5〜10%にあげたDX7の丸コピーを作ることだった。シンセサイザーのすべてのパラメーターをわずかだけ安定しないようにすれば、弾くたびに何か多少不安定なものが得られるからね。誰かが20分間ベースで同じリフを繰り返すのを聞いたとしても楽しめるのに、それがシンセサイザーのパートだったとしたら15分間もしないうちに眠りこけてしまうのは、それが原因なんだよ。ここで僕はキーボードが大っきらいだということを言わないといけないだろうね。最近ではすごく退屈で、キーボーディストの地位はまったく向上していないと思う。

 

 DX7以外で「ナーヴ・ネット」に使ったキーボードはなんでしょうか?

 

 VSを少し使っただけ、それだけだよ。もうミニモーグは持ってないんだ。

 

 サンプラーは使いましたか?

 

 使ったけど、サンプリングのためではなかった。使った理由は、僕は同じものを繰り返して弾くことができないからだよ。何かを弾いて、自分がすごく気に入ったセクションがあるとすると、そこにはいろいろな理由があるのかもしれない……音符や、そこでの音のトリートメントの仕方かもしれないわけだ。そのブロックが気に入ったら、サンプラーでその部分を取り出せばそれを一つのユニットとして弾けるようになり、曲の他の部分に加えることができるんだ。サンプラーを使うときは、ほとんど自分のサンプルを作っているようなものだよ。前に弾いたものをとっておいて、その一部をブロックにして曲を作っていくんだ。ストリング・サウンドを作るためにサンプラーを使ったことは、一度もないね。

 

 あなたの音の趣味は長い間それほど変わっていないと思いますか?

 

 そうかもしれない。最近のシンセサイザーのほとんどは、ニューエイジ・ミュージックのように聞こえるから大っきらいなんだ。パステル・ブルーのジャケットのカリフォルニアのレコードみたいだよ。最近のシンセを使ってみたり、『チューブラー・ベルズU』を聞いて僕が一番はっきりと思うことはそれだね。
  DX7は、特に優れたシンセサイザーではないと思う。たまたまその使い方を知っているだけだ。いかに粗悪にデザインされているかを考えるとおかしいけどね。それでもヤマハがシンセサイザーをデザインするときに、ただの親切心からいくつか提案してみたんだが、聞いてくれなかった。もうベーシックなものはできているのだから、今度はこれまでやってきたことを考え直し、その中から選択することが大切だといったんだけど、ヤマハは僕からも誰からのオファーも決して受け入れようとしなかったんだ。シンセサイザーの本当のデザインとは、工場を出た瞬間に始まるもので、デザインするのはユーザーだと言ったんだ。僕がDX7で音をプログラムをするとき、それこそシンセサイザーのデザインであり、その時に何かがちゃんと働くかどうかわかるんだ。このアドバイスに耳を傾けないなんて信じられないし、そうした点に注目しているアメリカの会社が、今に彼らを抜いてしまうだろうね。イーヴンタイドがシンセサイザーを作ったとしたら打撃だろう。

 

 「フラクタル・ズーム」ではチューブ・オルガンがクレジットされていますが?

 

 それはDX7だよ。アルバムで使っている楽器で、こうしたおかしな名前のものはすべてDX7なんだ。“DX7シンセサイザー”というクレジットを入れるよりも、かなりフェアなことだと思うよ。それぞれのケースで全然別の楽器として使われているわけだからね。DX7という言葉は“可能性の空間”のための単なる名前にすぎなくて、特定の音を選ぶことが大切なんだよ。

 

「フラクタル・ズーム」で聴けるフィルター・スゥイープは?

 

 あれはギター・シンセで、ロバート・フリップが弾いたものなんだ。彼は昔のローランド・ギター・シンセサイザーを使っていると思う。だから、アナログ・フィルターをスウィープした音ではあるわけだよ。

 

「ワイアー・ショック」のギターのような歪んだサウンドもDXですか?

 

 あの音には、ワミーペダルという、音を2オクターヴ上げ下げするピッチ・ペダルを使っている。DX7の音を2オクターヴ下げたもので、それをファズ・ボックスへ入れ、それからなんだか忘れたけど他のデバイスへ入れたんだ。

 

 ミュージシャンはどのようにして選択したのですか?

 

 ジェイミー・ウェストオーラムは以前から知っていたね。だが大切なのは自分の知らないミュージシャン達と一緒にやることだし、もっと大切なのは、お互いに知らない、様々なスタイルのバックグラウンドを持っていたり出身の違う人たちがいるということだ。それによって不思議な衝突が生まれ、本来そこに生まれるはずのないものが生まれるんだよ。これは、僕にとって常にエキサイティングなことだ。人が集まってみんなが同じようにグルーヴすることには、まったく関心がないね。それが始まってしまったら、もうやめるしかない。
 ミュージシャン達にまったく矛盾した指示を与え、それから4つ数えてプレイを始めるということもある。彼らにはいつもこう言うんだ、“変な音になっても弾き続けるんだ。ご機嫌な音になったらそれはどこかが間違っている”とね。つまり僕は、型にはまった音楽をうち破るため、趣味に反抗するためにミュージシャンを使っているというわけだ。良い趣味というものが、常に物事をまとめる役割を果たしてきた。何人かの優れたミュージシャンが、お互いを聞いてできるだけ早くまとまっていく……でもお互い違った音を出し合って、ひどい音になったとしてもやり続けるような鍛錬をするべきだと僕は言っているんだ。。その方が、思っていたより良いものができるかもしれない。このようなグルーブを募るとき、僕が知りたいのは彼らのバックグラウンドだけであって、僕が既にそこにうまく並べた他の要素に対して、彼らがそれと良い摩擦を生み出せるような音を出すことができれば、彼らと一緒に演るんだ。

 

 「ピエール・イン・ミスト」や「ジュジュ・スペース・ジャズ」では、どの程度インプロヴィゼーションを行っているのでしょうか?

 

 その2曲は、両方ともスタジオで一人でやって、最後に他の人間が弾いただけなんだ。だから、グルーブによる作品ではない。このアルバムでのグルーブ作品は、「フラクタル・ズーム」「ホワット・アクチュアリィ・ハプンド」、それに「ディストリビューテッド・ビーイング」だ。「マイ・スケルチィ・ライフ」、両方の「ウェブ」、それに「アリ・クリック」の半分にはインプロヴィゼーションが入っている。「フラクタル・ズーム」は、最初はグルーブのインプロヴィゼーションだったが、ドラムだけをとっておき、曲に手を加えて、後からギターを加えたんだ。人を集めてインプロヴィゼーションをやるというアイディア自体、一人のミュージシャンに何か新しくて珍しいことをさせる一つの方法かもしれないし、それが必要な唯一の要素かもしれない。他の人が全て失敗だったという意味ではなく、彼らはその一人の人間が弾くためのコンテクストを作り上げたということなんだ。

 

 ミュージシャン達には、テンポやコードの指示は与えないのですか?

 

 そういうことはしないね。セッションでは、カードに指示を書き出しておいたんだ。“何かとても醜いことをやる”、“倍テンポ”、“曲の風景になる”といったようなことをね。プレイしてみて、あるミュージシャンを指して特定の指示を与え、音を出さずにカウントすると、ミュージシャン達はその曲を自分なりに解釈して弾き出すというわけだ。2人の人間にカードをそれぞれ与え、2人一緒にカウントすることもある。そうするとその曲に突然予測できない変化が生じるんだ。だが、音楽用語で彼らに話すことはないね。

 

 ハウス・ミュージックっぽい曲もありますが、影響は受けているのですか?

 

 受けていないよ!逆に僕が影響を与えたんだ。ひどく傲慢に聞こえるかもしれないけど、そういう方が正しいんだ。

 

 ご自分をミュージシャン、コンポーザー、プロデューサー、あるいはクリエイターのうちのどれだと思われますか?

 

 僕は“curator”という言葉が好きなんだが、その方がうまく説明していると思う。僕がやっているのは、それまでに他人が一緒にしてみようと思わなかったことを一緒にしているんだと思う。それがであり、以前はパターン的には関連性になかったものをつなげて新しく意味のあるパターンを生み出すもののことだ。美術館にいる良い“curator”というのは、美術館においてある価値ある作品を配置し、しかもその配置には意味があって、以前には存在しなかったつながりがあって面白いというものを作り上げる人のことだよ。僕のことは“connector”とも呼べるだろうけど“curator”、の方がいい言葉だな。ミュージシャンなどという言葉は、もっての他だ。

 


KEYBOARD MAGAZINE 1992/12 Translation:Mariko Kawaharaさん     ( hataeno)