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interview 1991


 

  あなたとジョン・ケールの「ロング・ウェイ・アップ」を聞かせてもらいました。過去のヴォーカル入りアルバムの「アナザー・グリーン・ワールド」などに近いサウンドに、私は懐かしさを感じたんです。当時の作品から「ロング・ウェイ・アップ」に至る時間的隔たり、これは何を意味しているのでしょうか。

 

 長い間、歌が入ってるアルバムを作る気になれなかった。それが、今年に入ってから自分のムードが変わったんだ。突然、若い気分というか、楽観的になってね。新しい子供が生まれたせいもあるかもしれない。それまでは、音でペインティングするようなことに集中したいと思っていた。ところが去年、ジョン・ケールと一緒に仕事して、彼がもう1曲必要だっていうんで、彼が歌うために作曲を手伝ったんだ。その時、うん歌も悪くないなあ、また歌の入ったレコートを作ろうかなって気になった。

 

 それを聞いて安心しました。今度のアルバムは、共産圏のクラシック畑のアーティストをフィーチャーしたJ・ケールのアルバム“WORDS FOR THE DYING”の中の曲“THERE WAS A SAVIOUR INTERLUDE”や“THE SOUL OF CARMEN MIRANDA”の線上にあるものだと言えるでしょうね。とにかく、新作があなたの人間的暖かみや生活の中から生まれたことを肯定したいんです。

 

 あリがとう。僕自身このアルバムが大好きなんだ。ちょっと変な感じだけど、自分で聴いて幸せな気分になれるしね。

 

  あなたの心境の変化は、あなたが音楽と並行して取リ組んでおられるヴィデオ彫刻にも影響を与えたのでしようか。

 

 うん。今回の展覧会(90年秋、〈アムラックス東京〉で開催された「ナチュラルセレクション」展のこと)にも、大きなスクリーンを使った作品があるけど、いままでの作品と比べて、ずっとクレイジーでごちゃごちゃしてるでしよう。それは僕にとっては都市のイメージなんだ。今までは、田舎とか空間とか広々としたものに関心があったんだけど、現在の興味は「密度」にあるんだよね。たとえば、今回のインスタレーションのバックで虫の声を流してるんだけど、都市の交通渋滞の音のイメージなんだ。

 

 それは興味深い。以前のインタヴユーでは、アナログが持つ意味の曖昧さを重要視されていました。しかし、サイバーな都市に住み、ディジタルな音楽ばかり聴いている私は、高密度の情報があらゆる方向に交錯するディジタルな音楽にこそ、よリ脱意味的な状況が現れるんじゃないかと思うのです。

 

 僕がディジタルを批判する時は、いつもふたつの条件に限定して批判している。まず理論的な点でいうと、僕の0102.jpg (5827 バイト)関心事はいつもイエスとノーの間にあるからなんだ。たとえ、どんなに小さなスケールで考える時でもね。またプラクティカルな点について言うと、ディジタル・ツールは、それを使えるか、使えなくて捨てるのどっちかしかない。ほんとうにイエスかノーしかない。
 ただ、知ってるかもしれないけど、基本はディジタル・コンピュータなのに、非常に複雑なアナログ的働きをするコンピュータもある。神経網と同じ情報処理ができるんだ。ボストンの友人が発明したコネクション・マシーンを使うと、12万8千のコンピュータがパラレルにコネクションできるんだ。この連結されたコンピュータは僕にとって、もうディジタルじゃない、特別なものだ。このシステムのおもしろい点は、推測する能カがあるってことだ。つまり、ファジーな状況と対応できるわけだ。クリアーな情報をインプットしなくてもいいし、クリアーな回答をくれないこともあるしね。

 

 私は、出来上がった作品に「曖昧さ」があるという意味ではディジタルを肯定しているんです。アンビエント・ハウスをご存じですか。あなたの作られたアンビエントというコンセプトとクラブ・ミュージックであるハウスをミックスした音楽です。カット・アップされた音がぎゅうぎゅう詰めにされていく過程で、音の意味が分断され、無意味性が出てくる。作者によってイメージを限定されることのない、聞く側の姿勢としての「曖昧さ」の方にこそ可能性が残されているんじゃないでしょうか。さっき、あなたが言った「密度」というアイディアはディジタルとうまく合致すると思うんです。ぜひ、ディジタルにチャレンジして欲しい。これはイーノ信者としてのお願いです(笑)。

 

 ディジタルかアナログかの問題は、すべて複合性ということで言い尽くせると思うんだ。たとえば、アナログ楽器であるピアノの鍵盤をひとつ叩く。そうすると、空気中の何百万という分子が動き、数的に言えばこのシンプルな楽器は非常に複雑なことをやっているわけだ。ディジタル楽器で同じようにキイを叩いても、ほんの少しの分子が動くだけだろう。あまりにも単純すぎる。少なくとも僕の耳にはそう聞こえるんだ。人の肌とプラスティックの表面の手ざわりの違いのようなものかな。顕微鏡で覗いた人の肌は複雑でおもしろい模様を見せてくれる。だけど、プラスティックだと単純な模様しか見えない。今回の展覧会のイメージも同じだよ。それぞれのモチーフはシンプルだけど、全てが合わさって複雑なイメージの層を作っている。音楽の世界を見ても、いまだに、シンセサイザーなんかよりギター1本でやってる人たちの方がずっとおもしろいことをやってるよ。問題は洗練された楽器を使っているか、いないかなどではなくて、演奏者と聞き手の間の洗練された相互関係だと思うんだ。でも、あなたの言うことも正しいよ。ディジタルで単純なものも幾つも重ね合わせると、複雑で面白いものになるからね。

 

 私は、複合していくと、遠目から見るとひとつの単純なパターンが現れてくると考えたいのです。要するに人間の意識の問題--重力に拘束されずに世界を俯瞰できる、ある高みからの自由な意識を持っているか、いないかだと思うんです。
 ディジタルの話はこれくらいにして、今、イギリスの新しい音楽は全てといってもいいほどエコロジカルな動きを吸収しています。エコロジーについてお考えを聞かせて下さい。

 

 広い意味で、エコロジーとは人間の行動の結果だと思うんだよね。過去には、特に西洋の人間は言語中心主義の考え方「リテラシー(LITERACY)」に偏り過ぎて、言葉の意味に囚れていたんだ。ものごとを数値で解釈すること、つまり「ニューメラシー(NUMERACY)」がなかったんだ。堕胎反対運動にたとえてみようか。「リテラシー」の感覚で考えれば、どんな生命にも生きる権利があり、胎児の権利を強く主張するものになる。これを「ニューメラシー」の感覚で考えれば、「よし、胎児にも生きる権利はある、だけど胎児を救うには2万ドルのお金が実際にかかるよ。じゃあ、2万ドルでひとリの胎児を救うか、2万ドルで数千人の飢えている人を救うかどうするか」というような違った考え方が生まれるんだ。いままでの政治的な議論はすべて自由、正義、民主とかの言葉そのものだけにこだわっていた。言葉そのものには実体なんてないのに。0103.jpg (6419 バイト)ところが、「ニューメラシー」的に考えるようになると、今度はすごく複雑になって分かりにくくなるという問題が出てくる。そこで3番目のステップとして「エコラシー(ECOLACY)」という考え方がくるんだ。「これもできる」、「あれもできる」、じゃあ結果としてどうしたいのか?我々はどんな世界に住みたいのか?そんなことを認識するんだ。たとえば、僕が6台の車を欲しいとする。「ニューメラシー」的な考えでいくとこれは実現可能だけど、世界中の人が同じ考えを持っていて、実際にやってしまったらどうなるか?自分のことだけじゃなくて、もっと広い意味でものごとを考えることが「エコラシー」なんだ。
 現実に東京の車社会はひどく混乱してるよね。僕にとってエコロジーとは熱帯雨林のことや象のことじゃなくて、むしろ車とかエアコンとかみんなの実際の生活レヴェルのことなんだ。現状ではエコロジー・ムーヴメントは具体性のないことを語りすぎる。たとえば、サハラ砂漠の危機は、先進国が介入したことの直接的な結果だと思うんだ。砂漠が自然に育むことのできる人口は限られていて、過去にはそこに住む人とそこで生産される食物のバランスはとれていた。ところが、先進国が資金や食物を砂漠に送りこんだことで、自然のバランスを破壊してしまったんだ。過去に先進国が農業を改善し、人口増大に関与したので、砂漠環境の許容量を超えてしまった。人口増大にともなった食料危機が起きる、そこで、また先進国が食物援助をする、砂漠の許容量は変わらないままに他者の介入によって悪循環が続いていく。これこそ、「リテラシー」的考えの悪しき結果だよ。「食べ物がないらしい、じゃあ助けよう」と単純に考えてしまう。ふ〜、この件に関してはキリがないよ。話を終わらせられない。

 

 ヴァーチュアル・リアリティ(コンピュータとのアクセスを通じ人間が仮想的に体験する現実)という概念についてどうお考えですか。日本はこういうサイバーな国だから、この概念が、時代を解く重要なキーワードになっています。

 

 ジャロン・レニアという人がいて、彼はヴァーチュアル・リアリティのパイオニアのひとりだ。実は、1週間後にカリフォルニアで彼に会うんだ。て『ヴァーチュアル・リアリティ・フェスティヴァル』があって、そのシンクタンクのメンバーに僕も入っているんでね。最近は「ヴァーチュアル」というアイディアについて話すことが多いよ。デザイン・ツールとしてのヴァーチュアル・リアリティに興味がある。ジャロンが実験的にやったのは、LAの建築家とNYのクライアントがコンピュータで結ばれたヘッドセットで頭をすっぽリ覆って、3000マイルも離れていながら同じ状況を擬似的に同時体験しながら設計図をチェックすることだった。小児科病院の設計プロジェクトだったんだけど、建築家とクライアントは、ヘッドセットから目に投影された光によってつくられるヴァーチュアルな空間の中で、子供の身長になり、「窓が高すぎるね」、「ドアのノブに手が届かないね」とか対話しながら設計図の手直しをやったんだ。そしてその場でコンピュータが線を引き直す。最後にシステムから設計図をプリントアウトして仕事が終わリなんだ。このテクノロジーにはものすごい可能性があると思うよ。

 

 ハウス・ミュージックがリミックス、カット・アップ、シミュレーションを繰り広げた結果、作り手に対して聞き手が勝利する時代が来たと思うんです。もし、他人があなたの過去の曲をサンプリング、リミックスして、これはおれの曲だと言い張ったら、あなたはどうしますか。著作権にこだわりますか。

 

 興味深い問題だね。実際、アンビエント・ハウスの「アンビエント」とはそもそも僕のアイディアだった(笑)。でも、僕は嬉しく思ってるんだよ。だって僕のアンビエント・ミュージックは当時のイギリス中の音楽批評家たちに酷評されたからね、最近になって若い人たちがアンビエントを評価してるということは、批評家たちは自分たちの考えを覆されたわけだから。批評家は困ってると思うよ。著作権やオリジナリティに関しては難しい問題だよね。僕自身も「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オヴ・ゴースツ」の中で他人が作った音を使ったら、盗用したって言われたし。
 実は去年からね、すごく変な音楽をつくってるんだ。壊れた工業用ロボットのためのダンスミュージックっていう感じかな。かなり変な音だよ。ナイジェリアとかの西アフリカ的リズムで、メロディはアシッド・フュージョンみたいな感じ(笑)。91年の2月までにはレコーディングを終わらせたいと思ってる。ある意味でアンチ・モダンな音なんだ。すごく悪い音質でやってるし、「違法」サウンドだね。ふつうのスピーカーじゃ再現できない激しいディープなべースの音とか。大きなブラシに絵具をつけすぎて、それで絵を書いてるようなものかな。ビッグ・メス・ミュージック(大混乱ミュージック)。あっ、今いいネーミングを思い付いた!NEW RAGE MUSIC!

 

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写真は自分が写ったポラロイド写真に、自ら落書きした「セルフポートレイト」
明るい人である。

イーノは79年に最初のヴィデオ・インスタレーション展をNYで開催し、世界中で作品展を開く映像作家でもある。今回のインタヴューでも、作品展のために来日した折りに行われた。暗闇に光るヴィデオ彫刻、壁に投影されたスライドの重層的なイメージ。その空間にイーノ自身によるアンビエント・サウンドが静かに流れる。

 


 03 1991/1   interview by Yuzuru Agi    photographs by Yasuo Matsumoto