
interview 1982 - 1
ENO:なるほど、フェリーニは私も好きだが、小津安二郎やセルジオ・レオーニ、ボルチックといった監督の作品にも、触発されるね。大好きだ。ん、ところで、ここで話をするより、私の部屋で話した方が落ち着くような.気がするんだが、いいかい?ここだと周りの会話が耳について、どうも集中できない。それに、このマイクもBGMをひろってしまって、あなたも後で苦労するよ。オフィスは目と鼻の先だ。2、3分だよ……。
<それではと場所を移す。願ってもないことだ。歩きながらの会話>
:ニューヨークの女はイカシてると思うかい?ENO
いや、そうでもないな。
:そうかなあ?黒人もかい?ENO
あなたはどう思うの?
:世界中で最も美しい黒人の女はニューヨークにいると思うね。私がニューヨークに住んでいるのも、彼女たちの引力のせいかもしれない……。ENO
さっきといえば、小津の名前が出てきたけれど、小津のフィルムに宿っている沈黙したかんじが、あなたの音楽世界と、どこかで似通っている気がするんだけど、そんなふうに考えてみたことはない?
:たしかにその通りだ。私が非常に関心を持っているのは、アメリカ映画とはまったく違う、いわば正反対の部分に対してだ。アメリカ映画のカットというのは、ほとんどすべてがアクションからできていて、それは、映画ばかりじゃなく、アメリカのすべてがアクション、アクションで明け暮れているよ。ポップ・ミュージックしかり……。ENO
ふむ。そういう方向に傾斜するあなたの意識を形成した因子とは、なんなのでしょうかねえ。
:私が肯定したいスタイルというのは、私自身がずっとそれと一緒に成長してきたスタイルでもあるんだが、なにしろ私は、とても空虚な世界に生まれ育ってきた人間、そのぺースも月の満ち欠けのようにゆっくりとして、いま、我々がこうしている大都会とは、すべての点でだいぶ違うわけでね。もし私が、こういつた大都会に育っていたら、もっと違った別の形で仕事をしていたように思うね。私は、田舎で生まれ育った人間なんだよ。ENO
何か作るというときの、あなたのそういうスタイルは、具体的には、いつたいいつ頃まで、その芽を探ることができますか?
:絵を、音楽でやる以前に描いていた。実は、いちおう5年間ほど勉強したんだよ。それよりももっと昔となると、絵を描き始めるよりも、ずっとずっと前の…、幼かった頃に、私は“建築デザイン”に凝っていたことがある。自分が老いさらばえたときに住む家のあれこれについて、その頃からずっと心の中に描いていたんだ。ENO
いったい、いくつの頃ですか?
:6歳頃からだ(笑)。いや、ほんとだ、理想の家のデザインを何百種類もドローイングしていた。ENO
どんな家でした、それらは?
:とても複雑で、奇怪なものだ。床の高さの違う部屋や、窓の高さがバラバラの、いま考えてみても、ずいぶん奇妙なデザインのものだったが、しかし、それが私が一番最初に手がけた“作品”ということに、違いはない。ENO
しかし、6歳の頃に何百枚も“老人ホーム”の絵を描くというのは尋常ではないな。そんな熱情は、いまのあなたの音作りの方法論に、どんな影を落としているんですか?
:音をつくる方法は、絵画や建築とはたしかに違うが、いまの私には、それほど大きな違いがなくなってきている。ENO
そこら辺のありさまを、もう少し目に浮かぶように語つてください。
:なにしろ、ビデオカメラと機械を手に入れたのが、1979年の夏だったか。それまでこういった機材を使ったことがなかったんだ。おまけにトライポット(三脚)すらなかったから、カメラを立てることもままならず、代役として窓粋ちゃんを起用してね、カメラを窓枠に立てかけて、レンズを外に向けてセットしたまま、焦点も合わせずGOしたんだが、いっぺんでこのやり方が気に入ってしまったんだ。ENO
そこでだが、そういうあなたが、実際に、トーキング・ヘッズや、デビッド・ボウイーや、そのほかの多<のグループをプロデュースしていくのにそれらのミュージシャンとコミュニケートするのに、何が一番重要だと、考えているんだろうか?
:申し訳ないんだが、私は静かな生徒の前で講義をすることになれているので、雑音やアクションには神経質になってしまうんだ。悪いんだが、話しているときに、カメラの人はあまりウロウロしないでくれないか。ENO
現在も、たくさんのプロデュース依頼に追われていると思いますけど、そういうグループを選択する場合、かなり直観的に判断するんですか?
:そう、その判断はとてもシンプルだ。バンドでもアーチストでも本人と直接会ったときに、私もそういうアイデアでやってみたいと共感してしまうような新しいアイデアを相手が持っていたとき、あるいはそれが私のアイデアよりもベターだった場合、さらに私のアイデアを思いがけない方向に発展させることができる相手だったとき、出会いはとてもエキサイティングだ。しかし、バンドに会いに行って、彼らのやっていることが、すでに私のやってしまったことであったりすると、当然ながら私は一切の興味を失ってしまう。でもそのときに私よりもベターにやっているんだったら、やはり興味をかきたてられるけれどね(笑)。ENO
ところで、さっき歩きながら、タイに6カ月住んでいたと言っていましたね。どこかに旅行しようと思いついた場合、そういう思いつきをバッと、すぐさま行動に移す人なんですか?
:ああ、まったく、われながらあきれるほど素早く腰をあげるほうだね。うん、その旅行について言えば、とくにバンコックに行くつもりはなかったんだよ。実は、バンコック経由の飛行機に乗り込んだときに、急にバンコックに降りてみたくなって、降りたら、そのまま6カ月居座ることになってしまった(笑)。まあ、とくにこの旅に関しては、煮つまった気分というのがあって、かねがね自分の文化圏から一度は大きくはずれて飛び出してみたいと思っていたからね。単なる気まぐれというわけでもなかったんだ。ENO
ニューヨークにはいつ頃から住み始めたんですか?
:そう、3年前だったと思う,が、はじめの頃は、ここ以外のところで過ごすこともよくあったよ。ENO
その前は、どこに?
:ロンドン。ただ、その時分もあっちこっちに出かけたりはしている。ほとんどロンドンにいたけれどね。ENO
黒人の女たち…。
:ハハ、それもひとつだが、ニューヨークに来た最初の頃は、まさにバッド・タイムの連続だった。あまりにもひどい目にあったもんで、なんとしてもここに住みついて、その“パッド”な経験を“グッド”にするべく、一大決心をしたというわけだよ。もし私が1年前にニューヨークから去っていたとしたら、ニューヨークにおける私の過去の2年間というものは、まったくムダな歳月の流れになってしまっただろう。それくらい、最初の2年間というのはひどくつらい時期だったという気がするね。ほんの少しも楽しめなかったし…。ENO
「オルタード・ステーツ」という映画の中に水槍が出てくるけれど、あれには入ったことはありますか?
:「アイソレーション・タンク」と呼ばれる水槽のことだね…。一度入ったことはあるが、私の部屋の方がずっといい(笑)。あのタンクの欠点は水だよ。私はあのヌルヌルとした水が好きじゃない。それにスペースが小さすぎる。自分のからだの周りに壁が追って接触しているというのもまるで棺の中に入ったみたいで、とても愉快とは思えない。私の部屋のもうひとつのいい点は、そこでお望みの音楽をかけることができるということ。それと、私はそこでときどき実験をすることもある。ENO
しつこいようだけど、水槽の中に入ったときに、何か印象的なイリュージョンを見たりしませんでしたか?
:うーん、私がアイソレーション・タンクをあまり好まない理由を一言、言わせて欲しい。我々の文化圏では、人は往々にして極端なことをやりたがるものだ。大都会のスピードとプレッシャーとノイズの極限状況の中で生活していると、その反動というか、バランスを取り戻す反作用とみるべきか、とにかく人々は、音ひとつしない極限のサイレンスを求める。しかし、私は、自分の肉体を極度の大変化の状態に置くのは好きではない。できればもう少しバランスのいいレペルの生活の中で、変えていきたいと思っている。それは、もちろん可能だし、なにも両極端を行ったり来たりするだけが“知性”というわけでもないだろう。極端に走ることこそ、アメリカ的というか、とけわけニューヨーク的なことなんじゃないだろうか。ENO
なるほど。ところで、夢は、よく見る方ですか?
:そう、よく見るね。夢はできるだけ書きとめておくことにしている。実際に、たとえぱこの「オン・ランド」の“リザード・ポイント”という曲は3年前の今ごろだったかな、記憶に残った夢が、素材となってできている。 (さて、夢の話から、いったい次回はどんなお話がはじき出されますか…) 次回へ つづく 朝日新聞・WEEKLY HOT VOICE 1982.07.12ENO
(TAKUYA SEGAWA)