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出会うということ

移転してきた土地で、何かのきっかけから、土地の方とお知り合いになり、それがいろいろな方向に展開していくのは、ワクワク感があって、嬉しさをともなう驚きになります。それが老人になってからの事となると、これはもう、幸運と言った方がいいのかもしれません。

昨年春、文化センターの黒板に「ゆうゆう英語」の文字を見つけました。この地「雄踏」にかけたネーミングにもチョイ引かれて、教室に行ってみたのでしたが、これが「ビンゴ!」でした。10人に満たない会員数、違和感を感じることのない優しい雰囲気、決して堅くはないのに、礼節を感じさせる老先生の物腰、緊張を強いられることがない所だと直感しました。そこは負担にならない程度の簡単な英文童話の意訳の教室でした。以来、毎回、楽しんで出かけています。博学多才な先生からは、様々な分野のお話が飛び出してきます。古文、数学、天文、そして昔の映画など、その脱線がまた面白く、発せられる質問は、まるでクイズに答えるような楽しさがあります。

今週も、
Pitch という英語から、Concert-pitchInternational-pitch が、パリ国際会議で決まったこと、そしてヘルツやサイクルのことまで、お話は際限なく広がっていきました。数学や音楽、あまり得意ではない分野のことも、かみ砕いた解説で楽に聞けます。長い間、子供達に教えてこられた経験のせいなのでしょう、お話がわかりやすく、興味を持たせながら引き込む話術は、まさに名人の域です。

子供の頃、学校へ通っていた時期には、心から心酔出来る先生には、残念ながらお目にかかれませんでした。しかし、大人になって、それも老人になってから、すばらしい「先生」にお教え頂く幸運に恵まれました。パソコンの先生と、この英語意訳の先生です。なにも頑張っていないのに、どこからかご褒美をいただいたような気分です。

この教室では、英訳された日本の昔話をあらためて日本語に直すということをするのですが、簡単そうにみえて、これがなかなか難しいのです。助詞を「を」にするか、「に」にするかで意味が微妙に変わってきますから、一行やるのにけっこう時間がかかってしまいます。

漢字、ひらがな、カタカナを駆使して綴られる日本語は、世界一難解な言葉と言われています。テニオハの付け方で、意味が大きく変化する言葉は、日本語独特のもので、言い回しによって、込められた意味が浅くなったり、深くなったりします。たった一文字で文章の雰囲気が違ってきます。英語を和訳するために、日本語の使い方をあれこれ考えることは、今更ながら、非常に勉強になり、興味尽きることがありません。

日本語の含蓄は底が知れません、曖昧ではっきりしないという方もありますが、その曖昧さに隠された奥深い意味が、日本語の豊かさを増しているように思います。難しさを感じますが、同時に、日本語を使うことが出来る有り難さをも実感することが出来ます。

「能ある鷹(!)」のメンバーは、それぞれに長年磨いた特技の持ち主です。先日は、「お茶」をされる方から野点のお茶会 にご招待いただき、久しぶりに「お茶」を楽しむ機会を得ました。お庭にしつらえられたお茶席では、たっぷりと大服のお茶が点てられ、大ぶりの夏茶碗にお抹茶の緑色が映えて風情がありました。涼しげなブルーガラスの水差しは、黒漆の蓋裏に蒔絵が忍ばせてある逸品です。暑い日でしたが、北からの風も心地よく吹いて、清々しい一服でした。

お茶のお作法の勉強は、正座することが嫌いなせいで、こればかりは最後まで続かず、ある程度でやめにしたのですが、本当は、母に修行を強制されたことが、中止の理由だったように思います。お茶を頂いて、ふと、母のことを思い出しました。亡くなる間際までお茶に親しんでいた母の茶室のたたずまいが、次々に浮かんできました。若い頃には母とぶつかる事が多かったせいでしょうか、いっぱいあった母との軋轢を、際限なく思い浮かべる自分に呆れてしまうほどでした。

ちょっとした事を始めるだけで、いろいろな方と知り合うことができます。別な道を覗いてみることで様々な生き方を見ることもあります。だからこそ、人生は、死ぬまで面白いのでしょう。たとえ運がマイナスに動き、無残で酷いことになったとしても、それも持って生まれた運命なのでしょうから、仕方ありません、じたばたせずに諦めます。

浜松へ来てからは、毎日のしなければならないことは、出来るだけさっさと済ませて、後はしたいようにして生きていこうと思いながら、日をおくってきました。どんな人にも「命の終わり」は、例外なくやってきます、いつ終わってもいいようにして暮らす、何時の頃からか、そう思いはじめていました。今は、それを願いながら、巡り会う方との「縁」を大切にしようと思うばかりです。

いつも、何かが「やってみよ!」という命令を、天から発してきます。これは、与えられた「強運」の一つかもしれないと、勝手に思っています。天が「やれ!」と発破をかけていますから、もうひとふんばりしてみようかと思っています。何事も続けなければ「力」にはなりませんから。

(2012.8.05.)エッセイ目次へ 
 
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