ホームトップ旅目次トルコへの旅


 トルコへの老人旅(2010.11.11〜18)

トルコは世界で最も親日的な国と言われています。アンケートで、一番好きな国はと質問されると、53%が日本というのだそうです。

トルコの近代化を主導したアタチュルクは日本の明治維新を研究し、「日本に学ぼう」をスローガンにしたと聞きました。トルコと反目していたロシアを、日露戦争で日本が破ったこと、エルトゥール号遭難に対して、地元和歌山の日本人が遭難した船員達を親切に助けたということなどに恩義を感じ、イラン、イラク戦争の時、日本は政治的決断が出来ず飛行機を出せなかったのですが、その時に取り残された日本人に対して、トルコは航空機を出して脱出を助け、昔の恩義に報いたのだそうです。

かつては「残酷野蛮なオスマントルコ」として恐れられていた民族でしたが、接してみれば、穏やかで礼儀正しく、出しゃばらない控えめさもあって、日本人とどこか似通った感じさえしました。

今年は日本との友好100年を記念した「日本年」であるということも、旅行する気持ちを後押ししてくれました。日本の青森くらいの緯度ですから、東京よりは寒いという情報もありましたし、冬支度も怠りなく出発に備えました。この旅行の最中に11月生まれの連れ合いジジは誕生日を迎えることになります。

中部空港からのトルコ便はなくて、ヨーロッパ方面はたいがいフィンランド航空でヘルシンキまで行き、乗り換えになるのですが、今回も同じでした。イスタンブールに到着したのはもう夜で、あたふたとホテルに入り、バスを使ってすぐに寝なければならず、夜のイスタンブール探索、撮影は不可能でした。

翌日は曇っていて今にも雨が落ちてきそう、やはり「雨女」はこんな遠い所まで来てもやっぱりアメオンナか、、と思いつつダーダネルス海峡を渡るフェリー乗り場に着きましたが、もうすでに雨が落ち始めていました。せっかくのエーゲ海は鉛色で何も見えず、いいとこなしです。

昼の鯖料理は、鯖を半分に割って焼いただけのものでした。荷物の中に入れた「醤油」を出すのを忘れたため、日本人には少し間の抜けた味でした。空港の手荷物検査が厳しいので大きな鞄に入れたままで、醤油瓶を出すのを忘れたのが、いかにも悔しかったのですが、これもトシかいなと嘆息しきりでした。

30分ほどで対岸に上陸、古代都市トロイへ着いた頃には雨が上がり、何とか観光の初日はさまになりました。モダンな感じのトロイの木馬は大きくて、窓までついていて、こんんな大きな物を疑いもなく城内に入れた事が不思議でした。中に兵士が隠れているとは思わなかったのでしょうかネ。「トロイ」は最近の映画ではドイツ人の女優さんが演じていましたが、トロイのヘレンは、やはり昔のロッサナポデスタのヘレンが最高だと思いました。あの美しさを凌ぐ人はなかなかいないでしょう。

翌日はエーゲ海最大級と言われるエフェソスとアルテミス神殿跡の見学でした。寒いと聞いてきたトルコは意外に高温で、とてもセーターなどは着ていられません、薄いブラウスで十分で汗が出ます。足が棒になるくらいの長丁場の見学でした。アレキサンダー大王の権力が誇示された都市だけあって、遺跡の大通は、かつてクレオパトラも歩いたであろうという説明が納得でした。

この旅を担当してくれたトルコ人案内人のジャンさんは新聞記者でもあるインテリで、東京で学んだという日本語は達者で、丁寧語もキッチリ、まことに品の良い言葉つかいで気持ちが落ち着きました。最初に現れた時は007のショーンコネリを蒸かして丸っこくしたような感じ、、などとふざけた感想をいだきましたが、なかなかの博学で、トルコへの愛国心タップリ、日本人の性質もよく知っていて、良い旅が出来ました。同行の方々は、途中キャンセルが出て13人、きちんと纏まっていて時間厳守でいい人ばかりだったことも幸いでした。

石灰棚で有名なパムッカレ奇岩のカッパドキア、宝物のトプカピ宮殿、東西文化の出会うボスフォラス海峡クルーズなど、順調に旅は進みました。「世界の三大料理」の一つとされてきたトルコ料理ということだけが参加の決断の材料だった連れ合いジジは、旅の中程でだんだんと機嫌が悪くなってきました。もともとツアーの食事はそんなに素晴らしい物は出ませんわネ、、「シシカバブ」も「ドネルケバブ」もほんのチョビット、、味見程度でしたから、ニク好きには不満だったということです。

そうそう、パムッカレでは石灰棚にたまってくる温泉水に昔はお風呂のように入れたそうですが、今は足だけ浸けることしか出来ません。裸足になって嬉しそうにピチャピチャやっている人達の向こうに一人の老人が靴のままで突っ立ってビデオを回しています。「アレッ?!」と思うまもなく、「ピッ!ピーッ!」と笛が鳴りました。その老人に向かって何回も役人が笛を吹いているのです。その老人はそんな笛の警告を物ともせずに靴を履いたまま立ち続けています。目を覆いたい気分になりました、だって、それはまぎれもない連れ合いジジだったからです(笑)。

悠然とその場から出てくるジジに同行の方々は呆れはったと思います。恥ずかしいったらありゃしない、、こんな時はいつも、他人のふりをすることにしてきましたけど、、

連れ合いジジのブツブツ文句が増えてきたのもトシからくる疲れだったのでしょう。それでもビデオカメラは離さずに、手で持って撮影をしていましたが、首から提げていないことが気がかりでした。カメラは紐で首に提げていないと、不便で危ないのに、、元来、ジジは自分がヨシとしたことを人からとやかく言われることが大嫌いな性格ですから、あまり煩く言わなかったのですが、これがはからずも最終日の事件につながってしまうことになったのでした。

最終日前夜の食事は「日本食」レストランでした。味噌汁やきんぴらを喜ぶ方が多かったようでした。添乗員Mさんと案内人ジャンさんの肝いりで、11月の誕生日の2人にパチパチ花火のついたケーキとトルコチャイのプレゼントがありました。照れ照れのジジが気の毒になったほどの盛り上がりでした。「有り難う!皆様!」「有り難う!ジャンさんとMさん!」

翌朝トプカピの宝物を観て、特別に30TLを払って見学したハーレムの内部もしっかりと撮影し終わり、ヤレヤレ疲れた、、とベンチに腰を下ろし、ホッと一息、まだ少し時間もあるのでトイレにいくことにしました。前のベンチには同行の人達が座っておられます。今のツアーは「耳太郎」という珍妙な名前のついたイヤーホンが配られ、案内人の解説や添乗員の声を、離れていても聞くことが出来るようになっています。その「耳太郎」を外して、ジジに預けてその場を離れました。戻ってみるとジジは一生懸命にその「耳太郎」のコードをきちんと巻き取ることに専念しています。いい加減にバッグにぶち込む私とは違って、キッチリ屋なのです。


さて時間だと立ち上がったら、横に置いたはずのカメラがありません!!
「やられた!」のです!いわゆる「置き引き」です。「ウワーッ!どうしよう、、、」
そう言えばさっきはジジの隣近くに男が一人座っていました、、、同行の皆さんがおられる前のベンチに一緒にいたらよかったのに、、、

もうどうしようもありません、騒いだとて戻ってくるはずもないのです。
「今は黙っていようね、飛行機に乗ってから添乗員Mさんに「盗難認知書」だけ書いてもらうから」多分保険をかけたはずだから、少しは戻るだろうけれど、しかし、しかし、何と言っても7日間の記録が残念無念です。動きのある映像は、ビデオからキャプチャしようと思っていたのに、、「クッソー!チッキショウ、、」

「だから紐で提げないとアカンって言ったでしょっ!」こんな時しか言えないからと、ババは声を荒らげましたが、ジジはいつもと違ってショボンとして言い返さないのが意外で、気の毒になりました「もう諦めよっ!言ったって戻らないしね!」と慰めともグチともつかないことを言った後、知らん顔で空港へ行きましたが、気持ちはおさまりません。だんだんと腹が立ってきました。「ボクは盗まれたことなどない!」と威張っていたくせに、なんなのよ!

人間が出来ていない証拠ですね。

ともあれ健康に支障がなく、無事に帰国出来たのですから、ビデオカメラを盗まれたことは、イイ教訓 として肝に銘じ、注意しながら毎日を暮らそう、、そんな言葉で締めくくらざるを得ないヨレヨレの老人旅でありました。

トルコは日本の倍もある国土に7千万人が住む国です。しかも人口は増えつつあります。街を走る自動車は安物の感をまぬがれませんし、田舎の家々のたたずまいは、日本と比べてみると、貧しい感じでした。アパートも建築途中のものが沢山ありましたが、近代化された日本の建設機材などは見かけませんでした。コンクリートを流し込んで2階、3階とつないでいくやりかたで、建築基準や耐震基準は日本とは比ぶべくもないものなのだろうと想像できました。

しかし、バスの移動中に見た多くの新興住宅建設地は懸命に働く人達で活気があり、道路もこれから整備がすすむのではないかと感じました。「日本の技術」の進出余地は十分にあります。各企業はトルコを視野に入れるべきでしょう。これからが楽しみな国トルコ、そして、どこか懐かしさを感じる国トルコでした。(2010.11.21.)


晩秋のトルコ(写真頁)
 ホームトップ> 旅目次  エッセイ目次  花目次  浜松雑記帳目次  料理ワイン目次