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グランドフィナーレ

新しい年の喧騒も鎮まった頃の寒い日に、一通の封書が転送されてきた。建設から50年を経たリーガグランドホテルの取り壊しが決まり、ロイヤルホテルの「土曜日シェフの会」の料理長米津氏の指揮のもとで、そのフィナーレを飾る晩餐会が三月に行われるというものだった。

グランドホテルの初代料理長であったシェフ常原久弥氏にはロイヤルホテルの「土曜日シェフの会」で1回だけお目にかかったことがある。両脇を支えられながら、きちんとテーブルの脇に立っておられた折り目正しい姿勢の、痩せぎすなコック服を思い出すことが出来る。

今回の指揮をとる米津料理長は、その常原氏の後継者の1人であり、長年にわたって「土曜日シェフの会」を支えた4人のグランシェフの中心的存在だった。王道を行く常原フランス料理が、この夜ほぼ再現されるという。「洋食好き」にはまたとない機会だった。

昭和49年に「暮らしの手帖社」から発行された「一皿の料理」は、この常原シェフがそれまでの経験に基づくプロの味付けを一般の主婦を対象にするために、計量スプーンで分量をはっきりと示した最初の本だった。実現にはかなりの試行錯誤を重ねなければならなかったという。目の前の人に向かってお話をするように語る書き方は、難しくなくて親しみやすかった。

「西洋料理はまずオードブル、、、これはなんとはなしに、そうなっているだけのことなのです」、、という書き出しで優しく始まっていた。ウインナーシュニッツェル(薄くのばした仔牛のカツレツ)、舌平目のボヌ、ファム(舌平目のリッチなグラタン)牡蠣のカークパトリック(牡蠣の殻焼きベーコン風味)、この本のお陰でこれらのメニュは、同じ味ではないにしても、今でも我が家の定番メニューになっていると言ったら、笑われるだろうか、、

時代とともに急速に進化してきた日本のフランス料理は、今や本家フランスから三ツ星を大盤振る舞いされるほどに成長した。日本人の舌、味の感覚が世界一だと認められたということなのだろう。道端の草一本すら貴重だったあの貧しい頃の日本からは想像も出来ないことである。日本がひたすら頑張っていた高度成長期、往時をしのぶ映像の数々は、このホテルがVIPを迎える大阪の迎賓館だったことをうかがわせるものだった。

50年がたって、始まった頃の賑わいはもうなくなっていたが、この夜再現されたオーソドックスな料理は、みんながいつかは食べたことがあると思い出させるような懐かしい味がした。

少し猫背になって、丸い顔にチョッピリ皺が増えた実直な米津料理長は、最後に壇上に登り、ジョークをまじえながら現場の苦労話を面白く愉快に語って、フィナーレの寂しさを吹き飛ばした。上映された古い映像を観ているうちに、すっかり忘れ果てていたことまでも思い出した(!)

その昔、結婚をしようかと思っていると伝えた時、大慌てで田舎から出てきた両親と、今やジジィとなった連れ合いが初めて会食をしたホテルでもあったのだ!その時、食べたものがステーキ(アノ頃はビフテキといった)だったということを、おババ以外の人はみんなもう忘れていた(笑)。

金縁で大阪城のロゴがあしらわれたクラシックな記念のお皿は、きっと我が家のつたない料理を美味しそうに演出してカッコつけてくれるだろう。 (2008.3.24.)


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