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弟のこと        


夕方から風が強くなった。北陸の小さな町は5月の風が強く、私達姉弟は凧揚げで終日遊んだ。夕方5時を過ぎ、みんな夕餉に戻った路地の遠くに黒い煙が吹き上がった。昭和21年、日本の火事としては10本の指にはいる大火が起こった瞬間だった。
強風にあおられ、小さな城下町はたちまち火の海になり、町全体が燃え続け、明け方になってからようやく鎮火の気配になった。消防は、屈強の男たちがいない敗戦直後のこと、手押しポンプを引っ張って近郷近在から徒歩でやってくる年寄り火消しばっかりだったから、町は燃えるに任せて燃え尽きるしかなかった。

火元から比較的遠かった自宅では、一家総出で荷物の運び出しが行われ始めていた。この時、7歳と5歳の二人の子供は邪魔になると母親は判断したのだろう、一人の男衆さんに弟と私は預けられた。手を引っ張られ、風上へと逃げながら、背負わされたリュックが重いことばかりを感じた。男衆さんの肩にくくり付けられた小型の金庫の形だけは、なぜか鮮明によく覚えているのは、子供の目にも一種異様な感じだったからだろう。手を引かれている2才下の弟は泣きじゃくり、寒さにガチガチ震えながら懸命に歩いていた。雪国の5月は陽が落ちれば寒い、冷えと恐怖で歯の根も合わずに震えながら弟を引っ張り、必死で男衆さんについて走った。

その火事の後、焼け残った神社の社と境内が弟の幼稚園になった。泣きべそは相変わらずながら、少し成長した彼は、この頃からだんだんやんちゃになって、いたずらを始めた。境内の燈篭によじ登って押し倒したり、丸太に乗って岸から離れて池の真ん中まで行ってしまったりして、年配の園長先生を嘆かせた。呼ばれた母は、今までのS家の伝統にはないいたずらっ子だと言われたと、後々まで、ことあるごとに言った。

大学受験の時も、宿の手配を頼まれていた私は、葉書で申し込んでそれで予約は済んだと思い込み、返事を貰うことに考えが至らなかった。当日その宿へ行った彼は、泊まる部屋が無くてゴタゴタしたあげく、旅館の好意で何とか泊まれたものの、受験には見事に失敗した。責任を感じ、ひどく落ち込んだ。母親には「いい加減だ」と叱責をくらった。翌年、受験が上手く行き、同じ関西へ出てきた弟は、実家からの届け物をわざわざ下宿まで届けにきてくれたりしたが、いつもすぐに帰っていった。新聞部のことにかまけていた私が何もかまってやらなかったからだ。

4年が過ぎて、卒論の仕上げの時期、生来の悪筆だった私は、高校の頃から書道を習い、形のいい字を書く弟に清書を頼むことにした。就職の予備訓練で毎日のように下宿にはいなかったので、彼には泊り込みで清書を書き上げてもらった。彼はいくばくかの僅かなお小遣いにもかかわらず、心安く請け負い、3日で仕上げてくれた。読みやすかったせいか、教授連の口頭質問もうまくクリアできた。

人の頼みを断らず、基本的にはおとなしく優しい彼は、友人も多く、冬になると大勢の仲間を連れて帰郷した。田舎の私鉄沿線に、格好ののスキー場があったからだ。その時の食事当番が私だったが、今から思えば大した物も出来ず、量さえあればOKといういい加減な料理だった。しかし、その時の彼の友人達は、私が大阪でアパートの引越しをすることになった時、大挙してやってきてくれて、あっと言う間に荷物を運んでくれた。少しばかりのビールで楽しそうにしていたみんなの顔がありがたかった。

社会人になって就職した彼は、酔払い運転の車にはねられたり、ロクなことがおきなかったけれど、奥さんになる人を見つけ、幸福そうだった。結婚式の後、お嫁さんを得意なスキーに連れていくという新婚旅行を計画し、友人達から喝采を浴ていた。就職した会社の倒産を機に退職し、父親の会社を継いだ彼は、バブルの最中から不況の時代へと経験を積みながら、強靭な経営者に変貌していった。

気配りが身上で、何事にもよく目が行き届いていた。3人の子供達にも尊敬され、今時珍しく愛されている。当たり前のことながら、あの「オネサマ〜!」と、半べそをかきながら手にしがみついて走っていた頃が、まるでウソのような大人の男になっていた。

母親の急な死にも落ち着いて全てを取り仕切り、参列者への挨拶も滑らかで、姉弟達はただただ感心して任せた。会社や町のことに忙しくしていることを時々聞きながら、なんとなく心配もせず、年老いた父親をまかせっきりにしていた。

そして彼もいつの間にか孫を持つジジになったが、彼はその孫の面倒も良く見てやり、細やかに手助けをしながら、孫の躾もおこたりなかった。長男にそろそろ会社のあとを継がせようかという今年、彼は少し不調だったらしい、老いた父親から電話がかかり、彼が入院するという、1ヵ月後に手術を申し渡されたのだそうだ。90歳をすぎた実家の父はただただ嘆き、困惑している。一番離れた所に住んで、何事も任せていた私は、心配と申し訳なさに心が傷んでどうしようもない。

たくさんの幼い頃のことが大波のように押し寄せてきて、いっぱい思い出されるのだが、どれを取り上げても、彼には謝らないといけないことばかりが浮かんでくる。トシが近いせいでよく喧嘩をしたし、蹴っ飛ばしたりもした。一個のリンゴを分け合って食べながら、すきあらば掠め取ろうとした。

実家を離れてからは忙しさを口実に、姉らしいことが何もできていない。あの人が姉でよかったと思ってくれたことがたくさんあったとはとても思えない。もし、一つでもあるとするならば、あの火事の時、決して彼の手を離さなかったことぐらいだろうか。しかも、そのことを彼はしかとは覚えていないだろう。

どうか無事に手術を終えて下さいと、祈り願うことしか出来ないことが、今は悔しく、そしてつらい。(2007.2.23.)

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