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あの夏の日

不思議なことに蝉の声もしなかった。全く音のない真夏の正午、青い空は白い雲をわずかに浮かせて動かなかった。時折、白い土埃が舞い上がった。田舎の白茶けた土道に、踏まれて干からびた牛のフンがへばりついていた。

遠い昔のあの日、大人達のざわめきがぴたりとやんだあの時間、天の声はただ空虚な響きで流れてきた。機器の雑音はその声をかき消し、ともすればかぶさり、ラジオを聴く者達の上をうねりながら通り過ぎた。暑い日だった。静かだった。日本が負けたあの夏の日

もはや国民に抵抗する気力も体力も残っていなかった。蓋をされた情報は、漏れ出るしずくのような細かな断片でしかなかった。それらをつなぎ合わせてみても、日本が負けるという事実を引き出すことは出来なかった。直感が与えるかすかな疑いをのぞいては、、、

国民は相次ぐ都市爆撃をうけて疲弊しきっていた。戦地の兵隊は戦う以前に補給のない前線で飢餓と病気に倒れ、各地で全滅した。参謀達は、本土に落とされた2個の新型爆弾の惨状を理解出来なかった。どうしたらいいのかも分かっていなかった。なるようにしかならないという無責任な現実放棄、臆病風にさらされて立ち尽くすだけの者達に、もはや出来ることは何もなかった。

くず折れるように日本は戦争に負けた。

もう失いうものなど日本には残っていなかった。歴史も、道徳も、恥を知る心も、葉隠れの精神も、みんな、みんななくなっていた。

あるのはただ、飢餓と灼熱の太陽だけだった。そして65年が過ぎた。

ことし、猛暑の夏、人声の絶えた街に、理不尽な死の報道だけがむなしくあふれる。混乱した情報を整理することも封印することも出来ず、国のドアは開きっぱなし、なし崩しに流れ出す沢山の大切なことごと。そしてまた日本は崩れていく。(2010.8.04.)

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