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Mr Rymbow 枕の草子(林 望氏)

東海地方の中日新聞はローカル新聞ながら、各方面の知識人を招聘して講演会などを数多く主催している。

男性向けの経済講演と女性向けの講演会をわけて開催しているのが少し不満だが、両方とも講演者がユニークで、人選が面白い。今回は書誌学という耳慣れない学問をされているケンブリッジ客員教授の林 望氏が「枕草子って、こんなに面白かったのか?!」という演目でオハナシをされた。

氏はイギリスでの生活経験から、風土、食、文化、風俗などに対する独自の観察と解析を、美味しくないと定評のあるイギリス料理をあえて表題にもってきた「イギリスはおいしい」というユーモアたっぷりのエッセイにまとめ、エッセイスト賞を得たという多才な60才である。

しかもバリトンを生かして歌手としても活躍しているという変わり種。話の端々に感じられる日本文化への深い知識と、そこからにじみ出る教養の奥深さは、さすがとしか言いようがない。イギリス仕込みのユーモアたっぷりの語り口は、漱石もビビってしまうのではないかと思わされた(笑)。

今回の「枕草子って、こんなに面白かったのか」という演目は、一見つまらないものに思えたが、なかなかどうして、、この古典を「艶本」のように解析して見せ、巧みに聴衆の心を掴んだ。

「春は曙、ようよう白くなりゆく、、」は、日本人なら誰でも古文の授業で少しは暗記したことがあるものだが、はっきり言って、面白くもなんともなく、興味もわかないしろものだった。しかし、氏は古文を解く切り口がユニークで、しかも語り口が平易で分かりやすい。その時代の有様が目の前に見えてくるようで、話の展開が面白くて、いつの間にか引き込まれる。そしてその先を知りたくなる。

高校の古文の先生がみんな林氏のような授業をされたなら、多くの生徒が日本の古典に興味を持ったことだろう。しかしこれは物語を深く知り、分析がきっちりと出来ていなければ、到底出来ない授業であるから、誰にでも真似出来るものではない。

まず、枕草子のはじめに書かれている季節の描写が、朝と夜に限られているのは何故なのだろうかという指摘でお話は始まった。確かに「春は曙」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて」、、、暗くなってからと朝早くまだ明けそめない時刻に限定されている。それは平安の昔、当時の恋愛や結婚が「通い婚」であった実態が深く関わっているからなのだ。

闇に紛れて女の家にこっそりと忍んでいき、夜がまだ開けやらぬ暁の頃、人目をはばかりながら帰っていく男。それを前提にして読んでいくと、枕草子には抱腹絶倒の世界がかくされており、読み進んでいけば、次々に可笑しい場面が現れて来るのだから、面白く無いはずがないのだ。そこには男と女の特性がはっきりととらえられていて、感性の違いが明らかにされている。

第二十五段「にくきもの」の後半

また、忍び来るところに、長烏帽子して、さすがに、「人に見えじ」と、まどひいるに、物につきさはりて、「そよろ」といわせたる、伊予簾などかけたるに、うちかづきて「さらさら」と鳴らしたるも、いとにくし。それも、やをら引き上げて入るは、さらに鳴らず。遣り戸をあらく閉て開くるも、いとあやし。すこしもたぐるやうにして開くるは、鳴りやはする、、

ひっそりと忍んでくるのだから、長高い烏帽子などはやめたらいいのに、権威好みの男は、それを被ってくるから、暗い中で、あちこちの御簾に長い烏帽子が引っかかってガサゴソと無神経な音を立てる。引き戸も静かに持ち上げるようにして引けば、音もなく開くものを、力任せに引くからガラガラと不細工な音をたてるではないか。
第六十段では、

暁に帰らむ人は、装束など、いみじゅううるはしう、烏帽子の緒、元結かためずともありなむとこそおぼゆれ。いみじうしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、たれか見知りて嗤い譏りもせむ、、中略。

思い出どころありて、いときはやかに起きて、ひろめき立ちて指貫の腰、ごそごそがばがばと結い、、、、烏帽子の緒、きと強げに結ひ入れて、、、、
、後略。 (中日新聞資料は新潮社古典集成本より)

夜明け前に帰っていくのは男として仕方のないことながら、余韻に浸ることもせず、さっさと装束を整え、キリキリと烏帽子の緒を元結いに結び揚げ、バタバタと帰り支度をする帰り際のあざやかすぎる男はどうかと思う、、やっぱり、少しでもそこにいたいという様子で、ぐずぐず、ごろごろしていて、いよいよ夜も白む頃、装束を整える暇もなくなり、だらしなく狩衣が垂れ下がったような感じのまま大慌てで帰っていく男の方が可愛いではないかといったくだりでは、会場に爆笑が起こった。

男は、官位の高低にかかわらず、酒を飲めば、ぶざまに口をゆがめて開き、髭をまさぐり、他人に無理に盃を強い、だらしなく前をはだけて下品に座って、まったくみっともない、、ホンマに男というものはどうしようもないものだ、、、などなど。

「枕草子」の作家、清少納言という女性は、このようにすべてに観察が細かく、なかなかの皮肉やであり、人生経験が豊富、ユーモアがあり、教養豊かな人であったのだろうと話を結ばれた。

紫式部と清少納言を並べてどちらが好きかという会場からの質問には、強いて言えば、ちぃと取り澄ました感じで才媛の式部よりは、美人ではなかったという説が有力だが、話が面白そうな清少納言の方が良いかナ、、と思うと、氏はその質問に答えられた。

文明は進み、ハイテクの時代がきても、人間は昔と何も変わらず、どのような世になろうとも、その本質はいっこうに進歩しないものなのだと言うことが、あらためて思い知らされたようで、愉快で笑ってしまった。

「能」の世界にも造詣の深い氏は、「おもて」いわゆる「能面」は、全く表情が無いように見えて、かすかに笑いが潜んでいることや、面を上、下、にわずかに動かすことによって、悲しみや喜びの表情を表現出来る世界で唯一の芸術であること。

そして、何日も興行をうつ歌舞伎や演劇の舞台とは違い、「能」はたった一回の真剣勝負であり、1時間前後の緊迫した時間を演者と観客が一体となって共有する切迫の舞台なのだということ、それは600年余の歴史を持つほかに類を見ない素晴らしい日本の芸術であるということを、時間を超えて熱心に語られた。日本を大切に思い、深く愛しておられる氏の気持ちが、聴衆に確かに伝わった二時間であった。

 
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