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 さわし柿 

寒風にさらされ柿の葉が茶色に変わってきて空がきーんと澄みわたり、時雨にはまだ早い秋の日の夕方は「藁を焼く匂い」がする。冬ごもり前の慌ただしく、それでいて豊かな収穫の時期の里の匂いだ。「柿の実」が赤くなりだすと気持ちが焦ってくる。渋い「はっちん柿」を早く取り込んで「渋抜き」をしなければならないからだ。今年「裏年」で実が少ない筈の我が家の「はっちん柿」は6月に逝った母の置き土産か、沢山の赤い実をつけた。

母親は「実のなる木を植えておくと子供の為になる」と言って、この上ない渋い柿「はっちん柿」の苗を、最初の子供が生まれた時に送ってくれた。この木に実がなるようになった時、その「渋抜き」をやって初めて「さわし柿」を作ってみた。多少渋さの名残があり、強い甘みは「甘柿」の単純な甘さを超えていて「山里の秋の夕暮れの匂い」がした。それからもう20年は経つだろうか。10個か20個しかならなかった木はここ5年くらい前から成熟したのだろうか100個にあまる数の実をつけるようになった。

「さわし柿」・・傷をつけないように枝からもぎ取り、良く洗って拭き上げてから新潟の山里ではへたを「焼酎」につける。(ブランデーで「さわす」と焼酎とは違ったハイカラな洋風な味になる)きちんと並べて密閉しておくと、7日から10日くらいで、少し柔らかく、独特の甘みになる。あの渋くて口が曲がりそうな柿が見事に甘い柿に変身する。寒いみぞれの降る晩秋の夜、炬燵で食べたこの「さわし柿」の甘みは舌にしみた。

柿と言えばいつも思い出す事がある。

秋は子供にとって楽しい季節だった。あちらこちらの家や畑に柿の実がたわわにぶら下がっていて、長めのものや、べっちゃんこや、とんがったものがよりどりみどりだった。実の沢山なっている甘柿は小さくて種ばっかり多く、不思議と美味しいものが少ないことを子供達は知っていて、美味しい「甘柿」を狙っては走り回っていたものだった。テレビもゲームも無いこの頃は、どこの柿が美味いか、どこの泥畑の蓮の実が食べ頃かをちゃんと頭の地図に叩き込んだ「ガキ大将」について外に出て、ウロウロするしかなかったし、それが又一番面白かった。

ガキ大将の勇吉っつあんについて行くと、いつも高い枝に登って、赤くて特大の実を取ってくれる。その日もぞろぞろと彼の後ろについて、畑の中に聳え立っている柿の大木の下へ行った。下の方になっているものはとっくにもう無い。食料不足の時代に子供の手の届く所に実が残っている筈もなかった。一番下の枝にさえ飛びつくのはとても出来そうになかったし、ただ上を見上げて、誰かが登るのを待っていた。

身体の大きい勇吉っつあんは何度かの失敗の後、下の枝に取り付く事に成功した。とっかかりがつけば山里の子供だ、どんどん上の枝につかまって登って行く。期待でいっぱいになりながら彼の投げ下ろす実を待った。落とさずに受け止める事が又難しく、べっちゃんと落ちて潰れて情けない思いをする事が多かったが、彼が投げ下ろしてくれる実は真っ赤で大きくて嬉しかった。「ほれ!しっかりとれや!」と言った途端、「ドスン!」と何とも言えない音がして、何か大きな物が落ちて来た。

・・・彼は私の足元に仰向けになって目をむいて落ちていた・・・

4−5人はいた子供達は一瞬何が起こったかを理解できなかった。動かない勇吉っつあんを見下ろして、たじろぎ、それから大声で彼の名前を口々に呼んだ・・・「死んだ!」と誰かが叫んだ。みんなは「うわーっ!」と声をあげて逃げ出した。その騒ぎで勇吉っつあんは少し動いた。
「勇吉っつあんが落ちたー!!」と彼の家に向かって走りながら叫んだ。おっかさんはすっ飛んで来て、彼を背中に背負い、「医者様」へ転がるように走って行った。

「柿の木はさくい、弱くてすぐ折れるから気をつけるように」と言っていた大人達の言葉が実感となってみんなの心に張り付いた出来事だった。幸い彼は酷い事にはならず、程なく「柿取り戦線」に復帰したが、もう絶対に高い所の真っ赤な実は取ってくれなかった。おっかさんにこっぴどく叱られたにちがいなかった。

渋い柿を焼酎ならぬブランデーにつけて並べながら、いつも目をむいてのびていた「勇吉っつあん」を思い出す。

雪国の冬はもう目の前に来ているだろうに、大阪の秋はまだ暖かい、ブランデーにつけた柿が今年ももう食べ頃になった。一年はあっと言うほど短い。



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