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今を生きる力(五木寛之氏講演)


作家五木寛之氏の講演を聴いた。五木氏は「蒼ざめた馬をみよ」で、直木賞を受賞し、60年代のカリスマ的な存在であった。当時の新聞の五木氏著作広告欄には、きまってたっぷりの髪を風になびかせた少し鬱屈した表情の写真が出ていた。カッコいい人であった。

76才を越えられた今でも、灰色の髪は一向に減ってなくて(笑)、相変わらず若々しい風貌である。かすかに残る九州なまりに親しみを感じながら、その淀みない語り口に聴衆は時を忘れた。

後期高齢者証が自分のところへも届いていると苦笑しながら、今の時代は「躁」から「鬱」への転換の時代である、「鬱」と言う字は草木の繁る様を表している字であり、生命力とエネルギーがあるという意味がある。そして二番目の意味は、この鬱勃たる生命力に蓋をされて夢も計画もうまく行かない状態であり、エネルギーの出場所のない状態で澱んでいると言う意味である。だから本来的に無気力で萎えている人は「鬱」にはならないと、話を進められた。

多くの仏像を拝見する中で、「悲しい表情」の仏像に出会い、仏とはすべての衆生を救うべく修行を積み、悟りをひらき安らかであるはずなのに、どうしてこのように悲しい顔をされているのかと疑問に感じたので住職に問うてみると、この世にはまだ救われず、苦しみのうめき声や、悲しみの泣き声をあげている衆生が多い、どうしてこれほどの救われない人々がこの世に多いのかと思われたとき、仏は深くため息をつき、悲しみに顔が曇るのだろう、その感情「悲」が、仏像のお顔に出ているのだといわれたのだそうだ。

「鬱」には、この感情「悲」も含まれている。ポルトガルの「サウダーデ」という言葉の意味には、大きな爆発するような「喜び」の背景に一刷毛のうっすらとした「悲」が存在することで、その歓びはよりおおきなものとなることをあらわしていると思うと語られた。

このような時代を生き抜くには、悲しければ泣き、辛さを訴え、深く深くため息をつくことによって、そこから立ち上がり又生きる力を得ていくことが大事ではないか、「躁」状態から「鬱」状態に入った今、「笑」だけではなく「悲」にも人間を復活させる力があることを認識し「雨や曇り」も当然と受け止めて生きなければならない。

金沢兼六園の「雪吊り」に譬えて、雪吊りが必要な木は、固くて曲がらない木だけであり、雪の重みですぐにバシッと折れてしまう木が「雪吊り」の対象なのであり、雪の重みでたわみ、しなる木は、いつかその重みをすべり落としてはじき返し、元に戻ることが出来るから雪吊りの必要はないのだ、と話を結ばれた。

五木氏は約束された時間を大幅に超えながら、精力的に疲れもみせず語り終えられた。さすがである。

結局、今のこの時代に逆らわず、「マイナス」を受け入れ、心萎え、悲しみつつ、それでもいつかは元に戻る柔軟性を持つこと、今は世界中がマイナスの時代、あと数十年は続くと思われるこの時代を「いつもカラリと晴れていること」なんか有り得ないのだと考えて、この世の中を耐え抜いていくしかないのだということなのだろう。

五木氏は「最近変わったところからの講演依頼が多くてとまどってしまう」、例えば金融機関、社員の心のケアの一環として招かれることがあって驚くと語りながら、ある「外科学会」で頼まれて講演をしたことがあるが、「お医者サマという人種は、人の話を聞くという姿勢ではない座り方をされて、聴く姿勢が見られなくて、まことに話にくくてイヤだった」と言われた。さもありなん、、、である。(2008.11.06.)

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