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「お一人様の老後」雑感


上野千鶴子、今をときめく「おひとりさまの老後」の著者であり、東京大学大学院教授、自らを「筋金入りのシングル」と笑い飛ばす60才の講演を聴いた。

「結婚していようがしまいが誰でも最後は一人」という言葉で始まった講演は、主催者である中日新聞が会場始まって以来と、驚くほどの大盛況だった。いかに多くの「おひとりさま」予備軍、もしくはすでに「おひとりさま」の女が多いかという証しのようだった。

彼女の歩んできた履歴は輝かしく、結婚していてはとうてい出来そうにもないほどの多くの研究成果を持ち、社会学、女性学の権威であり、ジェンダー研究のパイオニアでもあり指導的な理論家でもあると紹介されている。

人間は結局は生まれることと、死ぬことは運任せであり、シナリオを書くことが出来ないし、選択肢もない。今では誰でも承知していることだから、ことさら強調されなくてもいいのだけれど、では近い将来「おひとりさま」にどちらかがなった時のことをきちんと考えているかと問われれば、あいまいな顔をせざるを得ないのも事実だ。

シングルは気楽であり、老いた時に家族を持たない人は「他人様のたすけ」を借りることを躊躇すべきではない、他人の介護を気軽に受けいれること、介護保険は他人さまの世話を受ける権利をすべての「おひとりさま」に与えるためにあるということだった。これまで介護保険制度の裏にかくれて起きたさまざまな不祥事はこの際話題にはしないが、今までの日本の政治から考えると、本当に頼れるものであるとは言いきれない気がした。

家族があった人でも、子供たちは離れていき、結局はひとりになる、家族による介護は地獄の始まり、期限のない24時間勤務になる、そして悲劇が起きる。家族の介護は期待しない方がいい、「一緒に住みましょう」と子供に言われたら、それは「悪魔のささやき」と心得て、きっぱりと断るのが一番だというところで会場が沸いた。いまどきの賢い「おひとりさま」は、毎日TVをにぎわす事件でそんなことはよく分っている。

他人ならば介護に期限があり、お休みや交代ができる、しかし、家族は無期限の介護地獄に突入しなければならなくなって、お互いに追い込まれてしまい、悲惨な結果を招くことも多い。そういわれてみればその通りだし、子供の世話になろうなどとはさらさら思わないが、ほんとうにそんな事態が来て、介護が必要になった時、自分ははたしてどうするのだろうかと考えたら、やっぱり気が重くなった。いくら他人の助けを頼んだらいい、その権利があると言われても簡単に割り切れそうにもない。

「おひとりさまの気楽さ」を様々な例をあげて話をされた。「おひとりさまは怖くないヨ」「おひとりさまは気楽ヨ」「人に迷惑をかけたくないとか恥ずかしい」と思わずに介護保険のお世話を受けなさいヨと。そしていよいよとなった時に、他人さまの介護や援助を受け入れることを自分に納得させたらいいと元気良く話された。会場はどよめいた。

しかし、一人の醍醐味を享受するには、男であれ女であれ、まだわずかでも残っている心身の健康と若干の軍資金が入用である。そしてひとりでなんでもやり、ひとりを楽しむことが出来るようにしておくことも大切だ。言い換えれば「生きがい」と「やりたいこと」と「トシ相応の健康」があるかどうかであろう。そうでなければ早晩ボケる。

講演者が言うように、家族の為に常に待機することが当たり前だった女が、思いがけず手に入れた「長寿」、これを豊かで実り多いものにするにはどうすればいいかを、若いうちから考えて「金持ち」ではなく「人もち」になるようにする。そして親しくて助けになる他人をいっぱい準備できれば、今の日本の介護制度を頼んで「在宅で死を迎える」ことが出来る。本当だろうか?、、疑問はやはり残った。

一人になる前の「おふたりさまの老後」が、まずは先決ではないか。一人になったときのことは、それまでの夫婦のいろいろを踏まえたうえで、その時に考えればいい、そう思う自分は怠慢なのだろう。それぞれの夫婦や家族にはそれぞれのあり方があって、こればかりは、はたからはうかがい知れないものだ。ある日どちらかに与えられる「おひとりさまの老後」は、一人で死に向かって歩き出す時でもあると覚悟しよう。自分で出来ることはやれるだけやって、あとは丁と出るか、半と出るか、それは天のサイコロ次第、ヒトサマや政治は当てにはならない、バチ当りおババはそう思った。   (2008.9.13.)

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