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ふたたびの春

ようやく春爛漫の季節となりました。ありがたい事に、新しい土地で二度目の春を無事に迎えることができそうです。今年の冬は天候が不順で、三月の寒さには少し参りました。もう春だというお告げのような暖かさが続き、冬の厚ぼったい下着を脱ぎ捨てた日から、冬が逆戻りしてきたのですから、こたえる寒さは二倍になって感じられました。おまけに、大したこともないと、たかをくくっていた「遠州灘の空っ風」が、三月に入ってから、ノーテンキな新参者に思いしらせでもするかように、牙をむいて、何度か吼えてみせたりしました。北向きの勝手口を開けるたびに「ウッヒャ〜、、」と、慌ててドアを閉める日が何日か続きました。

「浜松はいいけど、この風がアカンわ、、」というセリフを、引越先のこの浜松を気に入っていたはずの連れ合いが思わず口にし、「引越し言い出しっぺ」の私も、うっかりと「ホンマヤね!」と同調したくらいですから、かなりのものでした。

物干し場は西向きですから大変でした。南方向も場所は広くとってあったのですが、道を挟んでお向かいさんがやけに近く見えて、ここに干すのが憚られたのも小さな誤算でした。「かまへんやん、誰も気にはせん」と連れ合いは言いますが、やはり気になるのですから仕方ありません、吹きっさらしの西のベランダで風と格闘した初めての冬でした。

それももう過ぎて四月、いい塩梅に晴れて風もなく、TVの天気予報が「きょうは風もなくいい日になるでしょう」と、太鼓判をおしてくれるような日が続いて、冬は終わりになりました。

振り返ればあっと言う間とは言うものの、2年分くらいのことを1年でやってしまったような疲労感と、ヤレヤレという安堵感で、長かったのか短かったのかは、さだかではありません。長年慣れ親しんだ土地を離れ、誰一人見知った人とてない所へ引っ越してきたのですから、呆れたり、驚いたりすることばかりの一年だったように思います。

二度目の春が巡って来る頃になって、ようやく二人で顔を見合わせて、「大過なくここまで来た」という感慨にひたる日があったりします。よくぞ無事で何事もなく過ごせたものよと思う先から、あとどれくらい元気で生活できるのだろうかということばかり考えてしまうのも、二人のトシを考えればあたりまえのことかもしれません。

ひと昔くらい前までは、引退したら、日本ではなくて、もう少し足を延ばして、気に入っていたカリフォルニア近郊に移住して生活してみるのも、いいかもしれないと思ったりしていました。ナパヴァレーに近くて、自然があれば、なお結構だと思いました。そこで、その予行練習も兼ねて、カリフォルニアに3ヶ月間暮らしてみたことがありました。

10年前のことですが、暮らしてみて気づいたことは、食べることに関するアメリカ人の「ある種の貧しさ」でした。食材があまりに単調すぎたのです。異常な肥満が多い理由がすぐにわかりました。澱粉と脂肪の詰まったディナーのセットや、砂糖過剰で頭が痛くなるほど甘いデザートを常食するからです。

きめ細かいなどという言葉の存在すらないスーパーの品揃えは、季節感を重視する日本人には絶望的でした。食べることにひどくこだわり、美味しいと聞けば何としても探し出して食べてみるという連れ合いのために、毎日いろいろと料理を手作りするには、アメリカはあまりに不向きでした。

自分が食べるぶんにはさほど拘りもなく、栄養が足りればそれでいいやという、いい加減なおババは何とか対応できると思いましたが、完璧主義で食べ物にうるさい連れ合いが、大雑把なアメリカに順応できるはずがない、しかも他人には人一倍厳しくて、すぐに些細なことで腹立つ人ですから、きっとストレスがたまり、それがみんなおババの方に向いてくるにちがいない、それはえらいことではないか、年老いてから外国でストレスにさらされるのは寿命にもかかわることになるだろうし、我慢できないかもしれない、そう思って移住を断念したのでした。

簡単に言えば、ますます老いてガンコになる人の面倒を、外国ではみきれないと思ったのです。この考えは正解だったと今は思っています。パーティ好きの陽気なアメリカ人と、ご近所付き合いをして歩調を合わせるには、ちとトシをとりすぎましたし、二人の性格からして無理なことでした。

結局、ダイスを振り出すように簡単に、大阪から程よい距離があって、「晴れていて気持ちがいい」という理由だけでここに決めたのですが、今は80%満足としておこうと思います。

冬の「空っ風」だけが計算外、想定外でしたが、あとはほぼ予定通りです。誰にも邪魔されず、気兼ねせず、好きなものを作って食し、ノンキに毎日が過ぎていきます。移転に伴うもろもろの雑事は、この1年でおおかたは終わりました。やっと土地にも慣れ、土地勘もボチボチと出来つつあります。好きなことも、だんだんにやれるようになりました。落ち着いてきたというのでしょう。

仕事をしていた頃は時間を作ることが大変だったパソコンも、いくらでもやれるようになりました、とは言っても、一人身ではないおババのことですから、連れ合いの食事の支度や家事もろもろは、きちんとやったうえでのことですが、、それでも時間はたっぷり使うことができます、これは最も嬉しいことでした。

何であんなに忙しかったのかと、つくづく思い返して嘆息することがあります。もう少し気持ちに余裕を持って生活が出来なかったのだろうかと。ドタバタと、がさつに生きてきたことと、何事も丁寧にゆっくりと出来ない性格に対しては、かなり忸怩たる思いがあります。自分の人生は成功だった、幸運だったと言いきれる確たるものは何もありません。けっこう不満や不平が多い人間ですから、これではアカン!こんなはずではない!なんてことばかりでした。

子育ても決して成功だったとは言えませんし、やってきた仕事自体も到達感からは程遠いものがあります。このような不発弾のごとき思いがブスブスと澱んでいる所で引退し、老後の命を細々とつなぎ、感動的、刺激的な出来事など、あるはずもない「おまけの人生」を、そのまま続ける気にはどうしてもなりませんでした。場所を変えたところで、そうそう感動的な面白いことなどあるわけがないことは、充分承知していましたが、失敗してもともとだと、居直りました。

ただ、深く考慮して決めたたわけでもないわりには、この街はいい所でした。なんとなくカリフォルニアに似た雰囲気を感じさせる乾いた空気と、蒼空が高く広いのが何よりです。浜松に新しく住まいを作り、来ることが出来たのは、晩年の幸運だったと思わなければならないのでしょう。

ここに来てから、夕暮れの太陽が様々な姿で落ちていくのを発見しました。大気の乾き具合で、落日の輝きは変わるのですね、夕刻時に忙しかった現役時代には知るべくもないことでした。毎日ダイニンングの窓ごしに沈んでいく太陽を、ゆっくりと楽しむことが出来ます。それが明日に希望を繋ぐ気持ちになれるから不思議です。太陽を復活の象徴として崇めた古代エジプトの王達の心が、チョッピリわかるような気がしてきました(笑)。少しは自然と仲良く出来るようになったせいでしょうか、いや、それとて、トシを重ね、時間があるせいだと言われてしまうかもしれませんが、、

昨日は三ケ日の丘から富士山の真っ白な頭が大きく見えました。黄砂が飛んできて、あたりがかすむ日が多く、花曇りが当たり前のこの季節には珍しいことでした。遠回りした帰り道、夕映えがことのほか赤く映って、透明さを増した浜名湖の湖岸を、スピードを落としてゆっくりと走りながら、さまざまに浮かんでくる埒もないことを、思いめぐらしていました。「ふたたびの春」が間近な、晴れた一日のことでした。

BOW先生のモルジブでのお誕生日を祝って、乾杯!!2007.4.16.)

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