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墓所の移転に想う


ての人間は必ずいつかは死ぬのだから、今生きている人達にとっては、死んだ後の安住の場所としての「墓」は、避けては通れないものの一つである。

今や死後の世界へのおそれやおののきはなくなってしまい、単に骨が土に帰る物理的な処置場所だという考え方の人も多い。かくいう自分も、既に骨の散骨場所を決めて、息子になかば強制的にそれを依頼してある。

映画「アマデウス」のラストシーン、栄光のはてに凋落し、貧困のなかで亡くなったモーツアルトの遺体が、雨の中で共同墓地に投げ込まれ、石灰の白い粉がその上にぶちまけられる様子が映し出された。人間の命のはかなさと無情さがよく出ていて秀逸な場面だった。

どんな葬られ方をしても、骨はいつかは砕け、土中深く埋もれ、溶け込んでいく。死者が誰であっても、その人を知り、覚えている人が絶え果てた時に、全てが終わりになるのだから、残った人たちの気が済むようにすれば、それでいいのだと思っている。

墓のある大阪から250キロほど離れた浜松を終の棲家とした私たち夫婦は、毎年数回は父親が建てた墓に詣でていた。それは、かって住んだ場所へ行くという楽しみでもあり、馴染んだ関西の料理を味わったり、買い物をしたりする口実にもなっていたのだ。

しかし、いくら二人とも高速道路を走ることが苦にならないといっても、「枯葉マーク」対象のトシになれば、いろいろ危ないことも多くなってくる、次に墓を守る人間も、そこにはもういない。「墓」の移転を考えようということになった。

連れ合いの父親は、昭和の初期に大阪の南の端っこの大きな公園形式の霊園に墓を作っていてくれたから、「仏教宗派」やお寺の意向などを考えることをしなくても、墓の移転ができそうだった。馴染みのない土地に墓を移すことに対して、義父への申し訳ない気持ちがない訳ではなかったが、実子である連れ合いからの提案であれば、許して下さるだろうと思うことにした。

新しい墓をこの土地で探そう!風の吹き渡る湖岸近くに市が開発した墓地公園があったが、すぐ横で産廃の埋め立てをやっているのを見て、なんとなくイヤな気分になったのでやめた。

しばらくして、幸いにも家に近い所で山地を切り開いた小さな市営墓地の募集があったので申し込んだ。浜松市になってから、応募が殺到し、残り少ないということだった。

近い将来、どちらかが入った時に、すぐにお参りが出来て、一人になった寂しさが少しでも紛れるなら、近いところがいいと思った。小さくても個性のある墓碑にしよう、そう思っている。

昭和20年3月14日の大阪大空襲で、連れ合いの父親と母親、兄と姉は自宅の地下室で焼死した。鉄筋コンクリートの地下室の防空壕は安全だと思いこんでいた家族は、避難もせずにそこに居続けた。

米軍のB29爆撃機からアメアラレと投下された焼夷弾を受けて建物は炎上し、その物凄い熱は、一気に地下室を襲った。「バケツリレー」などで消せるような火力ではなかったはずだ。

報道管制下にあった各新聞は、既に東京を焼き尽くしていた焼夷弾の威力を、大阪には伝えていなかった。ウソの情報ばかりで、真実が国民に知らされていなかったための悲劇だと言えよう。三階建ての診療所と家は、爆撃後一週間もくすぶり続け、遺体は地下室の中で燃え尽きて、灰になってしまっていたという。

霊園が市街地から離れていたために墓は焼失を免れたが、墓に葬るために集めようとした家族の「骨」は、無残にも灰となって、掬い上げようとする手からこぼれ落ちた。

その夜、勤労動員されて大阪城の裏手にあった砲兵工廠で高射砲を作っていた16歳の連れ合いだけが、奇跡のように生き残った。

翌朝、瓦礫と化した街の中を黒焦げの残骸を避けながら帰り着いた自宅の場所には、出迎えてくれる筈の母親や家族の姿はなく、あちらこちらを探し回っても家族の情報は得られず、集合場所とされた所で、いくら待っても誰も現れなかったのだそうだ。

あまりの事にそれからしばらくは茫然自失の日々が続いたという。そのために、当時の記憶はあいまいであり、特に弔いや墓にまつわる事、誰をどのように葬ったかを、全く覚えていないという。無理もないことだと思う。

移転の手続きのために霊園事務所を訪れた時、霊園管理の事務所員は、何枚かの必要書類を提示しながら、古い棚から茶色く変色して少し破れかけた分厚い「帳面」を探し出し、それを繰って、父親の名前を見つけ出してくれた。そして、その時の埋葬者の名前や人数を教えてくれた。そこには連れ合いの父親が墓の使用権を買った当時の値段も記されていた。

「158円」、、、

昭和15年当時の支払い記録がきちんと残されていた。

「返却分は、、もう長い年月ですから、、」

と、言いながら係員はなおもページを繰り、

「20円、、、ですね」と言って笑った。「20円!、、」私たちも思わず笑った。

「お義父さん、20円はもういいですよね!浜松の小さな墓に移ってくださいね」

3月14日が一家の鎮魂の日となってから、永い年月が経っていた。建立の日からもう70年、、雨上がりの霊園では、雲の切れ間から弱い陽が墓に差しかかって、早春の蒼い空がゆっくりと広がりはじめていた。(2009.3.05.)  



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