ホームトップ>エッセイ目次母親のこと(ポックリ寺のごりやく)

母親のこと(ポックリ寺のごりやく)




たった2週間前に大手を広げて迎え、送ってくれた「ふるさと」から電話が入った。おばば様が倒れたとの知らせ、そして第二の電話、小康状態で今すぐどうこうなるという事もあるまいという知らせ、ヤレヤレあの気丈なおばば様がそう簡単に参る筈もない、いつも「目玉だけになっても生きる」と、のたもうていたから。しかし高齢ではある、明日様子を見にいこうと飛行機の予約をとった。そして第三の電話、「駄目でした!」、、この間30時間。

あまりのあっけなさに驚くというより実感がわかない、お寺を巡り、温泉に入りご機嫌だったあの様子からは2週間後の「死」は誰が予想し得ただろう。88才の米寿の祝いに皆を呼んで大宴会をすると張り切っていた。大きく、かさ高くなった孫達が集まると手狭だと、台所の改修を始めていたが、結果的にはこれが命取りとなった。

残されたおじじ様が無残だ。敗戦後の命からがらの復員、町の復興と、立て直しに対する努力とその成果は、おばば様の土台持ちの上で全て行われたと言っても過言ではないからだ。天皇陛下から長年の努力に対して「勲章」を下さる、と素直に喜び、二人で皇居へ向かってからまだ10年は経っていない。家の事が何一つ出来ないおじじ様が残されてしまった。

おばば様の突然の死に、多くの方々が驚き、嘆き、その死を惜しみ、悼んで下さる。80才を過ぎてなおこのように惜しまれた死をあまり知らない。

困窮の人への精神的物質的な援助と励まし、きっぷの良さ、気配りが身上だったが、道理に合わない事には非情とも言える冷たさで切って捨てた。振り返ってみると、教えられた事の数々がそのまま人生を生きる為の「みちしるべ」になっていたように思えてくる。潔く生きよ!と、、

「ポックリ寺」へ何回も足を運び、「死に病に罹ったら、3日だけ生かして下さい」といつも頼むおばば様は、その理由を聞くと、子供や孫達が集まるのに3日は必要だからだと言って笑っていた。あまり何回も頼むから「ポックリ寺」のご本尊は、うるさくなって3日を1日にはしょってしまわれたのかも知れない。

病み疲れていない死に顔は綺麗で、今にも起き上がって来そうで余計に哀しく、葬式の混乱の中で、わからない事や物の有り場所を何度も聞きに行きそうになって其のたびに泣けた。そして「ポックリ寺」のききめの大きさが今となっては恨めしくもある。

ふるさとの緑は2週間前と少しも変らず、ただ風がごうごうと吹いて、おばば様の「煙」を吹き飛ばしていた。合掌
(2004.4.23)

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