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「しあわせる力」


(玄侑宗久氏 2010.3.04.)

しあわせる力」と題して、芥川賞作家玄侑宗久氏が講演をされた。

経歴を見れば、福島県警の通訳をされた経験もあり、臨済宗の僧侶で、大学の教授でもありという博学多才な人であるらしい。お話は軽妙洒脱、それに頭脳も切れそう、、今風に言えばまことにクールな感じであった。

もともと和語である「しあわせ」という言葉は「幸福」、いわゆる「ハピネス」とは違うということから始まって、日本人の「しあわせ観」の移り変わりを語られた。たとえば、少し前には村に電話が一台しかなくで、電話がかかると、その都度村人を呼び出していたものだったが、今やみんなが携帯電話を持つようになった。便利になり、呼び出しにかかる時間も不要になり、その分の時間的余裕も生むことが出来た。しかし、その余裕が出来た時間を何に使っているかと言えば「メールを作ることや読むことについやしている」、、学校ではメールを送り返すことが遅れるといじめられるのだそうだ。そんな機械は本当に「しあわせ」といえるのか、、と。

日本人が思ってきた「しあわせ」はその「字」「仕合わせる」ということからもわかるようにかならず「相手」がある。モノやジカンが沢山あってもそれは「しあわせ」にはつながらない。「相手」とうまく「仕合わせる」ことが日本人の「幸せ」なのであろう。「幸」には「さきあう」という意味もあり、お互いに相手を思いながら咲きあって生きていくことだ言われる。

なるほど、、さすがは言葉の使い方では超一流「芥川賞」の受賞者だと感服した。おたがいに相手とうまく折り合いをつけることが「仕合わせる」ということであり、それが「幸せ」になっていくのであって、西欧のハピネスなこと、すなわちモノが豊かで時間に余裕があることばかりが幸せとは言えないのだという主張だ。

時には神話「いざなぎ、いざなみ」の頃のこと、くだっては「七福神」の設定された事始めのことなど。「絶対正統」がない日本には「異端」もまた存在しない、「やおよろずの神」とうまく「仕合わせてきた」という日本人の特質と感性にも話を広げられた。時にはとぼけたりしながら軽妙に話をつないで聴衆を引き込み、巧みな話術を持った人である。

このような住職が各寺に居られ、民の話を聞いてやり、語ってやるという環境は、つい近い昔までは存在したのだが、いまはもうこのような会場まで来なければ、おもしろおかしく、そして心から頷けるお話は聞けなくなってしまった。何となく笑顔になって会場を後にする人が多かったと感じたのは私だけだったのだろうか。

著書へのサイン会でもマジックペンは使わずに、硯と筆を使ってそれぞれの人に違った言葉を書いておられた。「有言実行」の方だとおみうけしたが、その分時間はかかる。待とうか、どうしようかイライラした私は、まだまだ「仕合わせる」ことから遠いのだと思った。(2010.3.04.)

 長時間待ちで頂いたサイン)

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