Home旅目次エジプト日記>(3)ルクソールと王家の谷
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(3) ルクソールと王家の谷へ


ルクソールのカルナック神殿


エジプト観光のハイライトともいうべきルクソールに到着、2時間遅れのエジプトタイム。ルクソールは古代エジプト最大の都で、その昔はテーベと呼ばれ、繁栄を極め、政治、宗教の中心地であった。

ルクソール神殿は新王国時代にアメン神を祭るため建てられ、ラムセスⅡ世、アメンホッテップⅢ世によって増築改築がなされて豪華さを増していった。神に捧げた巨大神殿や石像、カルトーシュの彫られた巨大柱群に王の権力の計り知れない大きさを知る事が出来る。スフインクスが並ぶ参道はカルナック神殿まで長く続いて、列柱の見事さには、しばし呆然とするばかりだった。


ルクソール神殿の大列柱

王と神官達しか入る事を許されなかったという列柱室はいまだ当時の着色が残り、カルトーシュの彫りもはっきりとしていて驚かされる。壁には戦いの勝利を記念したレリーフが残され、オベリスクは天に突き刺さるようにそびえて、一本になった孤独を嘆いているかに見えた。(一対の片方はパリのコンコルド広場に移っている)   
ハトシェプスト女王のオベリスク

ハトシェプスト女王のオベリスク

・長さ30.43 メートルで最大
・トトメスⅠ世のもの21.8メートル


大列柱室

・ 幅102 メートル
・ 奥行き53 メートル



(ここは夜になると照明が少なく薄暗く気味悪い)


夜にはカルナック神殿で音と光のショーが行われる。カルナックの奥にある聖なる池の前に特設観覧席が設けられていた。この池の手前に幸運の運び手のスカラベ「ふんころがし」の石の彫刻がある。結婚したい人は3回周りを廻るといいのだそうだ、離婚したい人はエート??回?冗談でしょ!

真面目な顔でグルグル廻っている外国の人達、どっちの方のお願いやろか??

この聖なる池は昔はナイルの水が流れ込んでいたが、この水が流れ込む事をやめた今でも、枯れる事無く水は満々とたたえられていると言う。しかし、風が止んだ夜には少しメタンガスの臭いがした。

カルナック神殿は発掘調査が始まってからもう30年が過ぎようとしているが、いまだにその全容が知れないという神秘の神殿だ。王達が国家の繁栄と権力の永劫を願って寄進した石像や神殿でうまっていて、まだ発掘調査は続いているという。

音と光りのショー

「つかの間の人生から得た取るに足らぬ物を持って、今ここに立っている者達よ!」

「ギョッ!私達の事かしらん?、、、」

ショーの開始の言葉にこだわっているうちに光と音が交錯しはじめた。日本語は朗々と響き渡り、中村敦夫(木枯らし紋次郎)に良く似た男優の声がなかなかの風格だ。

夜の日本語によるショーは5時40分から行われた。3000円程の入場料はチト高いようにも思えたが、日本語による劇仕立てのショーはけっこう見ごたえはあった。池に映える光が淡く幻想的で、つい太古の昔の世界に引き込まれそうになる。


カルナック神殿の音と光のショー・同行の宮本氏撮影

遺蹟の中を歩きながら徐々に聞いていくエジプトの昔話は、ドイツ語、英語と時間差で移っていくらしい。帰り道のそこここには軍隊の兵士が観客に背を向けて10メートルおきくらいの間隔で立って、警戒にあたっている。もし賊が襲って来ても、守ってくれる態勢に見えたが、あの旧式の銃では、はたして武装した賊軍を撃退することが出来るかどうか疑問に思えてならなかった。

1997年以来、ガタッと減った観光収入はエジプト経済に大きなダメージを与えた。そのため、主な観光地には軍隊の兵士や警察官を数多く配置し、エジプトの外国人観光客に対する気の遣いようは、相当なものだ。政府はかなり神経を遣って警備に万全を期しているように見えた。

ナイル川とアスワン・ハイ・ダム、それに観光資源の保持、観光客警備などなど、エジプトは軍事費第一で市民生活はどうしても二の次になるのだろう。どこのトイレでもバクシーシ(喜捨)を要求された。トイレチップは出すけれど、もう少し清潔に掃除してくれないかしら、、 


王家の谷からデール・エル・バハリへ


王家の谷


1922年の大発見の現場へ
    

ラムセスⅣ世とツタンカーメンの墳墓入り口


ツタンカーメン墳墓の壁画と棺


昼と夜の世界を表す女神ヌゥト神のパピルス絵


ハトシェプスト女王葬祭殿

王家の谷への道

いよいよツタンカーメンの墳墓のある王家の谷へ出発!王家の谷は浅いすり鉢のようになった谷で暑さがひどく、11月だと言うのにまるで真夏、熱気が充満していて風もない。ここの墳墓は全て岩窟墳墓で、長く細い廊下を降りていく、通路を抜けると入りになっていて、次の通路の脇には小さい部屋が奥まで並び、玄室まで続いている。

封印されたツタンカーメン王の墓はラムセスⅥ世の墓の傍に造られたため発見が遅れ、ハワード・カーターによって発見後、様々な伝説を生み、呪いがかかると伝えられた。そのため墓盗人の盗掘の手をのがれ、埋蔵物がそのまま残り、古代の埋葬方法を知るてがかりとなった。

ツタンカーメン王は即位が9才、死去したのが18才という若い王であり、際立った政治的な力があったわけでもなく、王としての働きも残っていない。急いで造られたという墳墓ではあるが、しつらえは素晴らしく、遺体のミイラは金のお棺に横たえられ、数知れぬ豪華な副葬品に包まれていて、目も眩むようだったという。

現在は玄室の正面の壁画と棺が残されているだけで、棺を囲った黄金の厨子や墓の守り神である黒い山犬の姿のアヌビス神は、カイロ博物館に保存されている。

王家の谷には休憩所があり、ここからは自動車は入れない、排気ガスが墳墓の谷に充満して悪影響を及ぼすことを憂慮しての措置だそうだが、ここから乗るトリムバスの如き乗り物は煙突の様な排気管からボッボッと黒い煙を吐いて谷を巡る。日本の自動車の方が排気ガスは少ないように思えたけど。

ハトシェプスト葬祭殿へ

王家の谷からハトシェプスト女王葬祭殿があるデル・エール・バハリへは谷に添ってがれきの道があるらしいが、暑さで余程の体力がないと参ってしまいそう。11月というのに日中は30度を超えた。日陰が無いので全く隠れる所がない、ジリジリと腕が焼けてくる。レストハウスのベンチへ駆け込んでしばし休息してから又墓に入る。

中王国時代、B C 2000年頃、ハトシェプスト女王は父王トトメスⅠ世と自分のためにここに壮大、華麗な葬祭殿を造った。彼女は、エジプト史上はじめての女王であるうえ男勝りで、反対派をことごとく葬り去り、権力をほしいままにした。

彼女に虐げられたトトメスⅢ世は女王の死後、それまであった女王の像や絵を全ての建物から削り取ったという。


ゲートの警備は厳しく、バッグの中まで覗き込むし、あちこちに兵士の姿がある。門前の土産店はなんとなくうらぶれた感じで、葬祭殿までの広い道を歩いていると、丁度夕刻にかかり太陽も陰ってきていて、背中が薄ら寒い。

ここでのあの「悲劇の殺戮事件」を思い起こすと、葬祭殿のテラスで追われ、逃げ惑い、犠牲になった人達の霊がさまよっているような気がして、気持ちが落ち込んで来る。

テラスのあちこちに銃を抱えた兵士が立っている。罪も無く、一瞬にして命を奪われた人々の叫びと、恨みの重さが背中にかかる気がしてきた。あたりに漂う霊気にぞっとして、そうそうにここを切り上げた。

友人は「早く帰りましょうよ!帰りましょうよ!」と、せかす。ハッサンに当時の事を詳しく聞いてみた。重傷者で、まだ息のある人はここからカイロまで、軍のヘリコプターで搬送したのだという。ゲートの警官は真っ先にマシンガンでやられ、ピストルでの応戦もむなしかったということだった。


「ハッサン!もし今そんな事になったらどうしよう?」

「大丈夫!僕が楯になります!」「・・・」

ハッサンが撃たれたら、後は誰が楯になってくれるのやら。なんだかよけい寒くなってきた。

帰りの道でもう一軒、アラバスターという石を細工する店に立ち寄った。子供達が群がって来て、小さな白い石の猫の置物を売りつける。

「ワンダラー!ワンダラー!」

すると店から主人が飛び出して来て、やおらホースで水を子供達に浴びせ掛けはじめた。何事ぞ、と思って見ていると、子供達から買い物をした客が店の物を買わないのをおそれて、追いやっているのだった。子供も素早くて逃げ足が早く、びしょぬれになるようなドジな子供はいない。

大人が店に消えると、見張りの子供が手を振る、すると隠れていた子供達がゾロゾロと現れ、又、

「ワンダラー!」「プレゼント!」


と叫ぶ、なんと逞しい子供達よ!と、感心する。バスが出発する時はみんなニコニコと手を振って、屈託が無い。「子供」の原点のような子供達。途中、メムノンの巨像を観て、今日の日程は終了。



メムノンの巨像、アメンホテップⅢ世の一対の座像はかっては葬祭殿をひかえていたが、歴代の王達が削り取って、自分の石像の材料にしたので、今はこのニ体しか残っていない。削り取られ、風化して石の塊になりかかっている、崩れ果てる日はそう遠くないように思われた。

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