ホームトップ> エッセイ>ドジョウの蒲焼き
ドジョウの蒲焼き


「ドジョウ、泥鰌、どぜう」、、もう今の子供達はこの魚が食べられる物だとは知るまい、実際にその姿を見た事も無いに違いない。ほんの昔!?50年ほど前まではドジョウは田舎は勿論のこと、都会でも食卓に登り、常に食することが出来た。農薬を使わない田圃には、どこでも隅の水だまりにドジョウはかたまって泳いでいたからだ。

田舎の夏は短いなりに暑く、冷房などと言う言葉は聞いたこともない時代には、夏バテを防ぐ為に夏の間は「ドジョウの蒲焼き」がよく食卓に出てきた。朝、大きなざるの中ににょろにょろと沢山のドジョウが白い泡と共に入っているのを見ると、その姿はあまり好きではなかったが(丸ごとのドジョウはいかにも気味悪かった)今晩のご馳走への期待に心が弾んだ。

親戚の伯父さん(昭和20年代のグルメだった)が熱い豆腐の味噌汁に活きたドジョウを放り込み、熱がって暴れた末に豆腐に頭を突っ込んで昇天したドジョウを美味そうに食べるのを見て、びっくり仰天し、以来その伯父さんまで嫌いになったことがあった。そんな少女時代のある日を思いだしたのは「土用の鰻」が話題になり、鰻も美味しいけれどドジョウの蒲焼きも美味しかったと、田舎の家に久しぶりで集まった人達で話が盛り上がったせいだ。

当時、砂糖はまだ貴重品だったが、蒲焼きにはけっこうな量の砂糖が使われた。甘辛いタレは甘さに飢えた子供には魅力だったし、なにより男衆さんの小刀さばきを見るのが面白かった。召集を受ける男衆さんはいつも決まっていて、庭仕事や大工仕事の男衆さんとはちがって、妙に粋で、その刃物を持つ手がしなやかで反り返り、見るからに器用な料理向きの手をしていた(体力が無く、すぐにへたばるので料理番を命じられていたらしいが)

台所の土間に七輪がしつらえられ、炭が真っ赤におこって来て、パチパチとはぜだしたら彼の出番だ。まな板の上にくねるドジョウを置き、器用に目打ちを頭に打ち込み(この時ドジョウは必ずキュウ!と泣いた)小刀でズーと開いて骨をとり、あっという間に5cmくらいの「開き」が出来上がる、何しろ沢山の数だから最初は色々と冗談を言いながら開いていた男衆さんも段々無口になり目も真剣になり、そして少し疲れて来る。

7人や8人の家族は当たり前の時代に、一人あたり10匹としても100に近い数を捌くのは大変な作業だったに違いない。「こら!成仏しろ」等と怒鳴りながら逃げ出そうとするドジョウをつかみ、裂いていく。あたりはドジョウの血で汚れ、生臭いにおいが立ってくるが、どういう訳かその情景が酷いとも気持ち悪いとも感じなかった。多分次に来る香ばしい匂いの魅力の前にはこの「ドジョウ殺し」は単なる通過儀式だと思い込んでやり過ごしていたような気がする。

それにしても、いつも、かぶりつきで見物して飽きなかった。男衆さんは最前列で熱心に自分の手元をにらんでいる女の子に幾分気負って格好をつけ、少し大袈裟に小刀を扱った。(この男衆さんも、10年程前に癌で逝ってしまった)

裂いたそばから網にのせて焼きに入るが、これは大婆様が取り仕切った。絶妙なタイミングで開いたドジョウをくるくるとひっくり返して、焦がし過ぎないように適当な焼き色をつけていく。タレはお手伝いの女子衆さんが手際良く何回も塗って仕上げたように記憶している、そうすると母親は何をしていたのだろうか、その現場の記憶に全く母親は登場しない。東京育ちの母親にとっては見るに忍びないドジョウ裂きだったのか、あるいは弟か妹を身ごもっていた為、残酷な景色から遠ざけられていたのかもしれなかった。

後年母はドジョウは嫌いだったが「蒲焼き」だけは好きで食べられた、と言いながらも「鰻の蒲焼き」の方が数段味が良いと小声で言って笑った。江戸前の鰻に比べれば、いかにもドジョウは小さく貧相で栄養の点でも劣っていそうに思うが、当時はそれを言うのは贅沢で罰当たりだったのだろうし、お姑様である大婆様に聞こえたらおおごとだった。

男衆さんの「南無阿弥陀仏」「なんまんだぶ・・」の片手拝みの声で儀式は終了し、手早く現場は片づけられて、後は香ばしい焼きの匂いの中でみんなが笑顔になり、振る舞われたちょっぴりのお酒に「裂き手」はご機嫌になり、全員に蒲焼き丼があてがわれ、ハフハフとただ食べることに専念して夏の幸せな夜は更けていった。「ドジョウの頭」の佃煮風煮つけを下げて料理番が帰って行くと、山村の夜は急に静かになり、暗さが一段と増すように思えた。


ホームトップ> 旅目次 エッセイ 花目次  浜松雑記帳  料理ワイン