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男達の西部警察

私は「西部警察」をあまり評価していなかった。

その理由は馬鹿馬鹿しかったからた。5年にわたり荒唐無稽で、馬鹿馬鹿しい子供だましを毎週日曜の夜8時に繰り広げていた、と言われることも少なくないが、これを甘受すべき内容ではあると思っている。1979年4月、首都東京に戦車を登場させるという話からスタートして、毎週、日産のどうでもいいグロリアとかのパトカーが壊れまくり、本当だったら税金の無駄というほど拳銃をうちまくって、全国各地で大暴れする「大門軍団」。犯罪捜査は暴力的で荒っぽく人権無視でも気にしない。いったい誰がこんなもん作ったのかという疑問を持つことすら許さないようなウルトラ警備隊よりもすごい装備の特殊車両。

大人が真顔でみるには内容がなく、子供の教育なら円谷プロのほうがよっぽどよかった、ような気もするが、やはりドラマは役者である。石原裕次郎と渡哲也の共演がそんなことは忘れさせ、妙に説得力をもっていたらしいが、私的には「石原プロならもっとしっかり作ってみ。」という感じだった。

「大都会」の焼き直しで、ド派手になった分、深みがなくなっていたからである。

世間では、日曜夜8時というNHKの大河ドラマがどっしりと構えているところに切り込むことになるが、常に視聴率は20%を超えていた。多くの人は日曜という憂鬱な晩も一服の清涼剤として楽しんでいたんのだろう。それが余計に釈然としなかった。「大都会」より面白くないと思っているのに、人気番組と呼ばれ、それは年月を重ねても変わらなかった。人々の記憶の中に長くとどめおかれた。そして「西部警察」をこえる刑事ドラマは出現してこなかった。

しかし先頃出版された本に渡哲也が語っているところを読み、意外だった。

「いい年をした中年男がサングラスなんかかけて、ここぞというタイミングの時に派手な車に乗って登場して犯人をバーン、で一件落着。おまけに事件が解決したら、パトカーに乗って帰ればいいのを、なぜか一人だけ反対方向へ向かって歩いていく。やっている方は照れますよ。それに街頭、とりわけ駅前などでの銃撃戦も恥ずかしかったですよね。本物の弾は高いから、とテストの時は自分の口で、パンッ、パンッ
と言いなが撃つ真似をするんです。大勢の見物人が集まっているなかで、大の男がパンッ、パンッですからね。」

これは仕方がないことで今さら何を言うのか。それで数字を稼いだわけだから言ってもしようがないことだ。「西部警察」だけのことに限らない。これをある番組出演者が言ったのならそういうことになる。しかし渡がそういうことに驚いた。そういうことを率先して受け入れて、数字のために体を張り、制作に関わる者を鼓舞し激励していた立場の人間が言うのだ。

そしてさらに驚愕する発言が続いていた。

「どこか他の映画会社にいっていたら、また違った自分がいたのではないかとも思いますけど、自分が選んだ道ですし、石原さんと深く長くお付き合いさせていただいたおかげで、人間のありようと言いますか、そういうものを教えられた気もします。」

「俳優・渡哲也という部分だけに限って、石原プロに所属したことが良かったのか悪かったのかと問われれば、おそらく自分は後者だと思います。」

おいおい、そこまで言っちゃうの、と吃驚するような発言である。車寅次朗であれば「それをいっちゃおしまいよ、おいちゃん」という具合だ。

俳優でありながら、俳優の理想を捨て、石原裕次郎に報いるためにやっていた、ということなのだ。

当時の石原プロは借金だらけで、経営再建中だったのだ。しかし裕次郎は会社のひとつやふたつ潰してもたいして気にならないような性格だったらしい。むしろ潰さないように必死になったのは渡や裏方の責任者コマサさんだった。映画でつくった借金を、映画をダメにしたテレビで稼いで返す、そういう方向転換のうえで「西部警察」は作られていた。

「西部」が成功し借金がなくなってゆく流れになってきたところで、渡には映画や他のテレビからの出演依頼が来るようになった。もともと映画で勝負して行きたかった渡にとってテレビはともかく映画の話は願ってもなかったことだった。どんなに金になろうがテレビは仮の住まいなのだ。しかし渡の耳にも、裕次郎にも知らされなかった。

渡はもちろん、裕次郎も「哲の思い通りにさせてやれ」と言っただろう。しかしのるかそるかでやってきたことが、せっかくのりかかっているところなのだ。このままやりたい、そういう気持ちでコマサさんは二人には明かさず話はすべて断り、「西部」に集中させたという。それが「俳優・渡哲也という部分だけに限って、石原プロに所属したことが良かったのか悪かったのかと問われれば、おそらく自分は後者だと思います。」ということなのだろう。

番組は順調だったが、途中で裕次郎が死線をさまよう大きな病に倒れた。現場の責任者となった渡は撮影現場から家には帰らず、裕次郎の入院する病院の敷地内にバスを常駐させキャンプ生活となった。家庭を顧みず裕次郎にすべてを捧げる日々となった。

「社長(裕次郎)にもしものことがあったら、自分も殉じたい気持ちです。」とテレビ「三時のあなた」の森光子に語った。

よくわからない。でもすごい話だ。

石原裕次郎の魅力を語る人は少なくない。

しかし裕次郎への思いをこれだけ表現した人間は渡くらいなものではないのか。なんというか、凄まじい関係にただ驚いた。

「西部警察」というドラマは渡の魂で成り立っていた。しかしそれは裕次郎への魂のメッセージなのだ。だから内容をとやかく言ってはいけないのだ、と気がついた。

石原裕次郎は奇跡とまで言われる回復をみせた。それと入れ代わるように「西部警察」にも最終回がやってきた。最終回で渡の大門は殉職する。最後の最後のシーンはその殉職した大門に向かって裕次郎が語りかけるという、渡と裕次郎、二人きりのシーンだ。

「コマサ、いいか。カメラは一方通行で俺の方に二台当てておけ。それにテストはなしだ。哲が主役だけど死人の役。寝ているだけ。俺はここで一発の芝居をする。」

「カメラや照明が用意できたらキーマン(技師)だけをおいて、後は外にだしておけ。」

裕次郎の気迫溢れる様子に、渡も感じるところがあったらしい。

「石原さんは何か、俺に対する自分の思いを喋るんだな」

渡は耳栓をしてスタジオの霊安室の台についた。もし涙がでるような台詞があっても平然と死体に徹するために。

「疲れただろう、だから眠っているんだろう、違うか、頼む、一言でいい、何か言ってくれ」大門、いや渡哲也にむかって語りはじめた。台本にはまったくない台詞だ。

「俺はなあ、お前が弟みたいに好きだった」

渡の手を握り、涙をこぼしながら言う。耳栓をしておいて正解だ。
「ありがとう、ありがとう」そう繰り返した裕次郎の言葉を渡は感謝と詫びの言葉と受け取った。

「石原さんが涙を流して演技をしたのを見たのは、この時がはじめてでした。私が感じていたことを、石原さんが感じない訳ありません。明けても暮れてもテレビをやらせてしまった、ということを、あの時の台詞で石原さんが一番感じていてことを知らされた気がしました。」