「キューバン・キャッツ」から「クレイジー・キャッツ」

上の写真は石橋さんがいないので1960年以降です。

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1958年 新宿のジャズ喫茶「ACB」の植木等

五人が舞台にたったあとで、六人目の男が出てくる。白いステージ衣装は他の五人と同じなのだが、態度がちがう。<客をなめきっている>とうか、階段をおりながら、<面倒だけど演奏してやっか>という風に、じろりと客の入りを眺める。顔は蒼白く、リーゼントで、髪が一房額に垂れている。色悪めいたムードで、妙に気難しいそうかと思うと、にやにやしたりする。にやにやしていないときは、おおむねポーカー・フェースである。ギターをとる姿も、なんだか不貞腐っているようだ。

 小林信彦「喜劇人に花束を」(新潮文庫)より

どうして一番最後に登場していたのかとの問いに、植木等はこう答えている。
「ぼくはね本番というと、小便がしたくなるんです。だからトイレいってたんですよ。」

1955年4月1日、ハナ肇こと野々山定夫が中心となり、キューバンキャッツが結成された。当時のメンバーはハナ肇(DS)萩原哲晶(cl)犬塚弘(b)橋本光雄(p)柴田昌彦(ts)のちに稲垣次郎(ts)南晴子、築波礼子(vo)等で、戦後のジャズブームから少し乗り遅れたことを自覚しながらも、ハナ肇はジャズバンドのキャリアをスタートさせた。しかしそこには彼なりの戦略が描かれていたという。コミックバンド、ジャズと笑いを融合させたかたちを目指したのである。

ハナの構想に大きな影響を与えたのは、浅草の笑いで、なかでも当時爆発的な人気を誇っていた脱線トリオであったという。脱線トリオは当時としては革新的な笑い、すなわち即興ギャグとコミカルなアクションを、とにかくテンポよく放ち続けるというスタイルだった。

一方でハナがバンドを結成するこの年の前年にフランキー堺が「シティースリッカーズ」を旗揚げした。音楽的冗談、冗談音楽、いろいろ言われるが堺がスタイルのお手本にしたのはアメリカのスパイク・ジョーダンであるという。舞台を通してのこの実験はまずまずの成功を収めたようだが、レコードやラジオつまり音だけでは成功から程遠かった。バンドの成功とは裏腹に、堺は笑いの天才としてこれ以降バンドを離れて活躍することにはなるのだが。

そのシティースリッカーズには谷啓、植木等がいた。バンドマンをやめて「渡辺プロダクション」をスタートさせた渡辺晋は、二人をハナのバンドに誘う。ハナも初期のメンバーが100%コミックバンド構想に同調しないのを感じていた。実際メンバーの入れ替えも激しかった。

キューバンキャッツがクレージーキャッツに変わるころ、谷啓、石橋エータローが加入。次の年57年には谷から送れて植木、安田伸が加入。これでメンバーは固定される。

ドラム ハナ肇

ギター 植木等

トロンボーン 谷啓

ベース 犬塚弘

サックス 安田伸

ピアノ 石橋エータロー(後の60年に桜井センリが加入)

これ以降58年に日本テレビ「光子の部屋」にレギュラー出演。翌59年にはフジテレビ「大人の漫画」そして61年、不滅の記録となる「シャボン玉ホリデー」が開始、「スーダラ節」が世の中を席巻するのである。