イラクで人質になった邦人に対する信じられないような発言録(選挙の時に思い出そう)
東京都写真美術館でロバート・キャパの没後50年にちなんだ「知られざるロバート・キャパの世界」展が開催されているので、足を入れてみた。スペイン内戦の写真と、キャパと日本の意外な繋がりを語る写真が展示されている。キャパと日本というよりは、戦前の日本人たちがパリに行って、それなりの足場を築いて人脈を広げていて、その中にキャパもいたのだった。もちろん戦後、戦場写真家として来日していて、その時の写真も見ることができたが、それほど印象に残るものはなかった。その来日後、キャパはインドシナで取材中に死ぬ。
キャパの名を一挙にメジャーにしたのは、今回のポスターにも使われている「崩れ落ちる兵士」だ。兵士が大地に崩れ落ちる瞬間がリアルに捉えられている。まるで映画の一場面のようだが、間違いなく死の瞬間である。死に直面することがない我々にとってショッキングな1枚であり、戦争というものの意味を考えなくてはいられない。それはここに倒れた兵士が生きていた意味についても考えることである。そして同時に自分と世界の間について考えなくてはいられない。戦争の世界(現実)はかくも厳しく惨い。その世界は受け入れがたいことだが、今でも世界各地に戦場て崩れ落ちる兵士が数えきれない程いるのだ。
キャパがカメラを向けたのは、戦場で敵に向かう兵士であり、その背後で兵士を支えたり、ただ逃げ回ったり廃墟のなかで立ち尽くす人だったりする。彼はこれらの光景を戦場から遠く離れた人々に伝えることで、戦争がもっている意味をむき出しにする。正義の戦争なんてありはしない、ただ人が殺しあう、破壊しあうところは惨く悲しい、それだけだ。弱い者はさらに弱さをさらす。人間とはいったいなぜ戦うのか、そういう人間とはなんなんだ。暴力はいけないとわかっていながら、それを繰り返すのはなぜ。キャパのレンズは風景を焼きつけると同時に、その風景の中に写る人々の悲痛な叫びも採取して見る者の心にねじ込んでくる。
深淵を見た者が深淵かする、とは誰かの言葉だが、悲劇をみたものは悲劇そのものになっていった。戦場をとり続けたキャパは悲劇そのもので、自分はなにものであるかの答えを戦場に探しにいったのだ。彼がなにものだったか、残された写真は雄弁だ。人類を信頼し愛していた、それが答えだ。ピカソがゲルニカを書いたのも同じ理由だからだろう。キャパが死をどのように捉えていたのかは別としてだが。
スペイン内戦はファシズムを恐れるヨーロッパの大国から無視された。「ファシズムの墓場」となるはずが、敵が勝利し世界史は暗黒の世界にまっ逆さまに落ちて行った。ファシストの膨張は留まるところを知らず世界を破壊した。キャパのその渦中にもキャパはいた。その時の写真はこの展示には含まれていないが。
「崩れ落ちる兵士」から68年たった。今なお、戦(いくさ)は続き、その渦中の人たちの苦しみは変わらない。弱い者は弱いままで、強い者たちはさらに強くなっている。そして戦場カメラマンもまた戦場の有り様を撮り続け報道されている。イラクでもこんなふうに。ワシントンポストより兵士の装備は変わってはいるが、すべての人間の表情はあの当時と変わるところはないように思える。怒り、悲しみ、絶望、そして死の光景。?なぜ?どうしてこのようになるのか、わからないからわかるまで私は戦場写真を見続けるだろう。
菅直人が自衛隊派遣を憲法違反なので反対していたが、本当にそう思うのなら訴訟でも起こせばいいのに、とか思っていた。菅直人がそんな面倒なことするわけないので、またはったりだと最初から期待はしていなかった。その一方で本当に裁判を起こした人たちが北海道にいた。
この原告は元自民党議員の箕輪氏で、国を相手に、原告のが平和的生存権を侵害されたものとして、イラク特措法と政府派遣の基本計画に基づき自衛隊員及び装備品をイラク国内及び周辺地域に派遣または輸送してはならないとの仮執行宣言を求めるものである。この箕輪氏は現役の時はタカ派だったのだそうだ。
「現職の自衛官から私のもとへ電話が入った。彼らは『日本国のために命をかけようと自衛隊に入った。イラクのためではない』といいました。私も心からその通りだと思う。家族の人たちはとても大変だろうと思います。1日も早く引き返せるように私はこの訴訟を、弁護士先生の力を借りながら全力でやり遂げたい」と決意のほどを語っている。「勉強不足の首相や防衛庁長官の重大な間違いを指摘して国の方向を正すのは私たち国民全員のつとめじゃないでしょうか。」確かに国民の義務である。ところがである。
世論調査では反対が多かったのだが、最近では追認するかのように派遣賛成という意見が増えている。私が危惧しているのはこの変わり身の早さである。世論の潮目の変わりかたは早い。小泉内閣の支持率も下がる気配はない。結局、戦地にいる人、家族を送ってしまった人を思いやる気持ちどころか、ほとんど他人ごとなのだろうか。
「今や挙国きう然として、民百万、北天を指さして等しく戦呼を上げて居る。戦の為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふのである」岩手日報/石川啄木
「不忠と呼ぶ可也、国賊と呼ぶ可也、若し戦争に謳歌せず、軍人あゆせざるを以て、不忠と名くべくんば、我等は甘んじて不忠たらん」平民新聞/幸徳秋水
(『幸徳秋水』論創社)「戦争は又もや起れり、何人にも無用無益なる疾苦此に再びし(略)人類一般の愚妄残忍亦正に再びす」イギリスタイムズ紙/トルストイ
朝日新聞によると一人の高校生の発案による「5358人分の署名付きの請願書」について尋ねられたところ、小泉首相は「読んでいない」と答えた。「自衛隊や各国軍隊の撤退を呼びかけるよう求めた」請願書の内容には触れずに、「イラクの事情を説明して、国際政治、複雑だなぁという点を、先生がもっと生徒に教えるべきですね 」と「独自の教育論」を展開した、らしい。
彼の考えによると「イラクの事情」や「国際政治」が「複雑」であると学校で教えるべきで、そうすればこのような軍隊の派遣を理解するようになる、ということだろうか。国家理念なく国会を軽んじ、憲法をねじまげた結果の自衛隊派兵なので、とても子供に教えられるような成人の振る舞いではないと思うが。
しかし請願した高校生の思い、そしてそれに賛同した人、それらの人の気持ちへのまなざしが皆無で、そのうえ読んでいないとしたうえて、独自の教育論を語るなどとはなんと情けない人間であろう。政治家たるもの、人の意見に耳を傾けることは基本であるはずだ。首相自らそれができていない。そのような政治かしかもてなかった現状について、有権者としてこの高校生にかける言葉がない。
2003年4月22日の「アースデーコンサート」を終えてのコメント。
そう、いつまでもそうあって欲しい。FM東京というか、現TOKYO-FMもそう思って欲しい。
歌はもちろん、あらゆる表現は原則そうあるべき、国家の介入は必要最低限であるべきだし、おかみの顔色をうかがってマスコミが「自粛」することなどあってはならない。
2003年4月22日に日本武道館で開かれた世界中継公演「アースデー・コンサート」に生出演、歌唱中に放送を“カット”されるハプニングがあった。主催はかのFM東京で清志郎はまたやってしまった。
「わかったよ、わかった、おばさん、イモな奴らがロックン・ロールをわかってないだけだから心配はいらないさ、すべてOKだ。俺はロックだから。」忌野氏のサイトよりさすがとしか言い様のないコメントだ。「俺はロックだか」というところが最高にいかしている。ロックというのは「すべてOK」なのである、なにかを伝えようと表現する時に誰にも邪魔をさせないこと、これがロックだ、そしてそこには価値の優劣などない、ただメロディーがあるだけ、上も下も右も左もなく自由なのだ。こういうことを言っても絵になるのは忌野清志郎かニール・ヤングかしか今の世の中いないのではないか。まあ、「あこがれの北朝鮮」という詩がかなり踏み込んで、いろんな人の利害に絡んでしまうネタなのだが、こういう現実へ見境なくコミットしてゆくところが古くて青臭くて、ロックだ。
あこがれの北朝鮮
北朝鮮で遊ぼう楽しい北朝鮮
北朝鮮はいい国みんなの北朝鮮
キム・イルソンキム・ジョンイル
キム・キムキム・ヒョンヒ
おーいキムって呼べばみんなが振り向く
北朝鮮で遊ぼうあこがれの北朝鮮
北朝鮮はいい国平和な北朝鮮あこがれの北朝鮮
いつかきっとみんな仲良くなれる
いつかきっとそんな世界がくるさ
差別も偏見も国境もなくなるさ
あこかれの朝鮮民主主義人民共和国
おーいキムなんだ‐ いゼリ
「あこがれの北朝鮮」収録 「不死身のタイマーズ」♪海辺にいたらタダで拉致して連れていってくれるよ 、なんてこの日は歌ったらしいが。
この詩を文面どおりとるやつはいない。いればそいつはあまりにロックってものを知らないってことだ。こんなふうに歌われて愉快な奴はいない。それでいいのである。そういう感じ方を放送局の臆病のせいでやめるべきではない。
清志郎とFM東京
清志郎とFM東京といえばあまりにも有名な「夜のヒットスタジオ」事件がある。生放送で、画面下には「偽善者 」というアルバムの一曲が紹介されていたが、始まったのは「FM東京、腐ったらラジオ、FM東京こそこそするんじゃねえ」というとんでもない曲だった。「お●んこ野郎」とまで言ったのだが、そこは生放送、差し替えられることはなくそのまま流れた。その曲のあとにシングルカットされていた「デイドリーム ビリーバー」も演奏されたが、中断されることはなく3曲ほど完奏した、司会の古館伊知郎が「お聞き苦しいところがあったことをお詫びします」と演奏が終わった後、心のない笑顔でいちおう謝罪していたが、その場ではそれだけだった。清志君の友達の山口富士男の曲がFM東京で放送禁止にしたから、というのが凶行におよんだ直接の理由だが、その2年くらい前には東芝EMIが「すばらしすぎる」との理由で発売を見送ったRCサクセションの「カバーズ」の中の「サマータイムブルース」を放送禁止にしたことを清志郎が忘れれたいたはずはない。
その後も「君が代」の放送をしなかったこともあったと思う。
そうした過去を忌野氏が意識したかどうかは定かではない。ただ、そんな問題児である彼を結局は受け入れてしまっている放送業界、そしてそこに入って行く忌野氏、勝負から言えば忌野氏の勝利である。
南部の木々には、奇妙な果実がついている。
葉っぱは血まみれ、木の根元ににも血がしたたり落ちている。
黒い体が南部のそよ風に揺れている。
奇妙な果実が、ポプラの木から吊り下がっている。
ビリー・ホリデーの代表的なレパートリー。
詩人のルイス・アレンの詩に感銘をうけた。
それは彼女の父の最後と重なる。
バンドのギタリストだった父が、巡業中に風邪をこじらせ肺炎となった。病院でみてもらうことは出来なかった。その理由はそこが南部のダラスであり、彼が黒人だったからである。人種差別のむごい仕打ちが父を死に追いやったこと、そのことがこの詩と彼女を深く結び付けたのである。
KKK団が黒人をリンチして木にぶら下げる。まるで木が果実をつけたように見える。とても奇妙な果実を。埋葬を許されず、カラスについばまれ、雨にうたれ風にさらされ、朽ち落ちてゆく奇妙な果実。
この静かな情景は怒りをもって歌われる。
南部では珍しくなかったこの奇妙な果実、もう過去として語っていいのか躊躇もあるが、このシーンは黒人の日常に関して雄弁なのだ。その果実の有り様をそのまま静かに語っていく。人間が果実になるこの事実をただ歌う。まともな感覚の持ち主なら心に刻まれるものはけして軽くないことを自覚するだろう。
ビリーの歌唱のすごさは、差別に対する怒りの歌でありながら、直接にそのことを訴えるのではなく、ただ静かに果実のことを丁寧に歌うことで、深く秘められた怒りと悲しみを聞く者に感じさせることである。自分の喉で白人の黒人への差別と抑圧に抵抗したのだ。あのふるえるような声だけで。ただ結果は悲劇的なものであったが。ヘロイン中毒で44歳で生涯を閉じる。
ビリーは1919年4月7日に生まれた。その母は13歳。祖母は白人に犯された経験をもつ。そのビリーも10歳で強姦され、売春宿に追われた。しかし彼女の歌が彼女を救った。若き日のジョン・ハモンド、後にボブ・ディランやアレサを発掘する人物だ。1919年といえば「国民の創生」が公開され南部の黒人リンチにはずみのついたころである。
1959年7月17日に死去。その後、アメリカという国そのものが揺れ動いた歴史をみることなく。ビリーの歌の響きがやがて歴史と言う大舞台にこだまして新しい幕が開けられたのである。
その4年後、キング牧師がワシントンで20万人を動員した大行進をおこなう。マーチン・ルーサー・キングが「I still have a dream」と題される演説は「たとえ今日も明日もわれわれが困難に直面しようとも、私にはまだ夢があります。」という有名な一節で始まった。黒人差別撤廃運動が最高潮を迎えようとしていた。しかしこの年公民権運動を支持してきたケネディ大統領が暗殺により死去。64年に公民権法にジョンソンがサインをした。
68年4月4日、キング牧師が暗殺。6月6日には、JFKとともに公民権運動を押進めてきた弟のロバート・ケネディが、大統領選挙の予備選挙の遊説中に銃でうたれ死亡した。犠牲も大きかった。
この曲をビリーがはじめて客の前で歌った時のことを、ビリー自身が語ったところによれば、「恐れたとおりの反応だった」。客席は静まり返ったという。しかししばらくすると会場の一人が拍手をした。するとその拍手の輪がわっと広がって嵐のような拍手に変わったのだった。1939年のこと。「風と共に去りぬ」が公開され、メイド役のハッティー・マグダニエルが黒人として歴史上初めてアカデミー助演女優賞をとった、そういう年だった。
そしてその20年後、公民権法が制定された。ビリーの勇気が20年の後、形になった。怒りを表現する勇気、彼女には歌うことで勇気を振り絞った。歌えば歌うほど勇気がでたに違いない。そして歌えなかった人々も歌うように、そして行動するようになった。
今は簡単に聞くことのできるこの歌は、最初、コロンビアレコードでは録音を拒まれた。コロンビアとくらべれば小すぎるコドモアから発売されたレコードでようやく世の中に広く知られるようになった。
1972年にダイアナ・ロスの主演でビリー・ホリデーの伝記映画「奇妙な果実 ビリー・ホリデー物語」が作られた。
金子光晴
自分流の誇りというものが、あるとしたら、その誇りが崩れそうになる前に、いつも僕は、うまく逃げるか、闘うか、どちらかをしてきた。上手くいった時もあるし、上手くいかない時もある。ただ大事なのは、自分流の誇りのようなものをなくしちゃいけないということだな。
. . 僕はリーダーという言葉が小さい頃から嫌いなんだ。誰の後にも従わないし、誰も僕に従わせたいとは思わない。ただ友達にはなりたいと思うけど。僕はどんなリーダーにも従わせない側にいたい。そのリーダーが恐がるような存在でいたい。
. . ロックは反体制とは思わない。僕がロックはヒーリングだと言う。だけどみんながロックはヒーリングだと言えば僕はロックは反対制だと言う。そうしたアマノジャクこそが表現者だと思う。
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