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May 1 2003 またこの日がきた。

アイルトン・セナが死んでから丸9年がたつ。
彼がF1に残した記録は少なくはなかったと思うが、多くはすでに破られてしまっているのではないだろうか。
トップスピードを抑え、スポーツとしての安全性と醍醐味を得ようとしてころころとレギュレーションは変わるが、マシーンの進化は止められない。レースの歴史は技術革新の歴史であり、最新のテクノロジーが最大のパワーとスピードを発揮するからこそ、レースには美がある。記録が破られるのはF1においては必然であり、それはセナの記録とて例外であるはずがない。
常に速さを求める、それがレースであり、その初期衝動こそがレースを語る原点だろう。セナはその衝動を己の生命の源と認め、それにすべてを捧げた。プロストが信じられなかったほどに、激烈に捧げた。

言い換えても仕方がないのでそのまま言うが、現在のレコードキングであるマイケルがどんなにがんばっても私は感動できない。どんなに記録を更新しても同じである。マイケルのレースに対する考え方や、その実践で発揮する精神力の強さは賞賛され末永く記憶するにふさわしい。なのに私が惜しむのは、この才能が87年前後にでてきていたらと思うのである。セミオートマがでるかでないかくらいの時期である。
給油なしで、今ほどダウンフォースがなくて、1000回以上のシフトチェンジのある車でセナやプロスト、マンセル、ピケ、あたりとレースで勝負してみて欲しかった。
この構図は大相撲に似ているのか。いくら勝っても、千代の富士とか北の湖とかの大横綱がいないからなあ、そういう感覚である。大相撲より悪いのは、彼がフェラーリという絶大なチーム力のある車に乗っていることで、強くて上手いドライバーなのは確かなのだが、勝利において車がどれくらの比重なのかがわからないのである。
悪い例がヴィルヌーブである。車は悪すぎる、それにしてもワールドチャンピオンがあの程度とは、やはり才能を疑わざるを得ないのだ。マイケルがBARに乗っても早さを感じさせてくれれば私のこの貧しい心をいれかえることができるのだが。どんなに悪い車でも、それなりに乗りこなしていれば、表彰台くらい乗れるのがワールドチャンピオンじゃないかな。そういう意味で、デーモンはジョーダンで1度、勝ち損ねたことがあったし、もっと古い例だと、ピケもベネトンでいつのまにか連勝していたことがあった。だからF1は面白い、と思った。ここずっと、ミカかマイケルがワールドチャンピオン、セナ、プロスト、マンセルの時代よりもいつの間にか長くなっているというのに、タレントがこれだけというのはなんだかやはりつまらない。


あと付け加えるなら、行儀が悪いくらいの情熱をみせて欲しいと思う。
アイルトンの場合は非ヨーロッパ人で、それもレースに狂っているということもあって、本人の意図とは関係なく確執を生み、それがさらに彼の闘志を掻き立てるというわかりやすいエピソードがあった。そのことを語る彼の主張とその語り口、両方とも情熱にあふれ、精神の純粋さあらわしているかのようだった。母国語でない英語で、批判に正面から反論するセナの態度が正しいのはその非難の対象になったレースを見てみればわかることである。
「彼は自分だけは死なないと思っている」と言ったのはプロストで、レース中のあまりに強引な振る舞いにたいして、スマートさを重んじるプロフェッサーが感じた苛立ちがにじみでている発言だ。プロストは後に機会を捉え、「危険なドライバー」の烙印をFIAから出させるまでにいるのだが、それはプロストの才能がすでにさび付いたことを表すことになった。
要はスタイルの違いであり、才能の違いである。速さの尺度だけで測ればプロストは負ける、だから危険かどうかという新たな尺度をもちだして才能の延命を図ったとしか取れなかった。手段として危険なものをとっているから速いのではなく、結果として速いものを危険としているのである。速いものはなんでも危険になってしまう。
プロストのこの言い方は、ホンダにもむけられたことがあって、同じチームなのにセナのほうがいいエンジンをもらっている、という不可解きまわりないことを述べたことがある。(これがなぜかFIAの会長からホンダへの公開質問状という形になったのは笑止であるが、あの組織はそんな程度である。)結果として速いのがセナであること、つまり自分が遅いことを認めないのだ。危険のかわりに「いいエンジン」となったわけである。
とはいいつつ、セナにまつわる物語では、そういうプロストみたいな人がいたから面白かった。グレートドライバーなのに幼稚なまでに自分が強いと主張したりするのは序の口で、あるいはピケみたいに「セナはホモだ」とか、マンセルみたいな駄馬とか。

そういえば、かの中村良夫氏はアイルトンを「もっとも勝つ可能性が高いドライバー」と評したことがある。このややこしい言い方の心は、スポーツマンシップとかフェアプレイとかを超えた強い意志で、つまり非スポーツマン的な勝ち方で勝つことのだということである。かつてジム・クラークやスターリング・モスがこだわったような勝負ではない。勝利至上主義なのだ、という。

中村氏がもっと言いたいのは、アイルトンに象徴されるような、勝利至上主義=非スポーツマン的なグランプリの背景には、金をじゃぶじゃぶつぎこんだハイテク化したマシーンが政治的な背景によって勝つという構造的な変化へ唾棄したいような気持ちのように思える。中村氏はアイルトンのことを好きだ、と言っていた。

たしかにそういう環境になってしまったのが90年前後で、アクティブサスの登場から禁止を経てからはさらにその傾向に拍車がかかっている。しかし、もう少し彼の個人的な背景を知れば、セナの勝利至上主義に対する理解が深まると思う。

ここでは一つだけあげるが、ブラジル人だからである。

去年2002年、ブラジルはサッカーW杯において優勝を飾った。レギュラー陣はロナウド、リバウド、ロベカル、カフーなど世界サッカー界の一等星をそろえるスター軍団。サッカー好きでも知られるセナは天上からこの様子をみてさぞやうれしかったろう。そのブラジルチームだが、けして堂々とした勝利だったとは言えないような戦いぶりであった。リバウドがズルをして罰金をくらったり、ロナウジーニョが一発でレッドカードをもらったりした。それも全然負けていない場面でである。どうしてそんなに余裕がないのか。

またJリーグに来るブラジル人も「非スポーツマン的」な奴が少なくない。その代表は現代表監督のジーコで、彼はJリーグ1年目のチャンピオンシップで、鹿島の劣勢な状況にいら立ち、相手がとったPKのボールに唾を吐いて退場させられている。6万の観衆の中でである。彼ほどの人物が、ろくなサッカーの歴史もないような国にきて、どうしてこんなに必死になるのか。同じ鹿島のビスマルクも汚いプレーと罵られることが多かった。磐田のドゥンガもどうしようもないほど、前にいる選手にひたすら大声をあげていた。彼がどんな時にでもそれをやるので笑いがおきたこともあったようだ。選手も観客もあきらめている試合のなかでそこまでやるのはなんのためか。

「血」なのだろう。過剰なまでに勝負にこだわる人が多いのだろう。その血がもろにアイルトンにでていると思う。ポールのこだわったのも、戦略的なこともあっただろうが、すべてに1番でありたいという、究極な欲張りであることからきているだろう。

ただ誤解して欲しくないのは、彼等はただ「勝ちたい」と子供みたいにだだをこねるのではなく、その執念を現実にするための人の3倍も4倍もトレーニングをする。それがさらに勝利への執着に昇華してゆくという循環なのかもしれない。ネルソン・ピケなんて人は、そういう意味ではかわったブラジル人なのかもしれない。

私的にはこういうブラジル人が好きだ。彼等は勝利が絶対だとしても、組織的に悪いことをしないし、誰かを個人的にやっつけるということもしない。目の前の勝利に誰かが立ちふさがった時に、けしてあきらめずに全力で勝負にでてくるのである。こだわるのは勝利だけ、このシンプルな思考が最後にとびでてくる。勝ちたいから技術をつけるのだが、これをやりすぎるとその技術を披露することが目的化して、最大の目的である勝利への欲求がぼんやりしてくる。チームプレイを計画通りやって勝てるうちはいいが、その技術が通じない相手にまるで算数のように負けてしまう日本がその典型である。勝ちたい執念にすぐに立ち返ることができるからこそ、技術を超える、またはそれがもっと高度かして現実になるということがあるのだろう。時として創造的とはまったく別のベクトルに働くことがあり、それがジーコやリバウドになるのだろう。

ただ、アイルトンの血はそのなかでも特別な血だったと思う。サッカーというブラジルの文化として世界の中で認められている競技とは違う、グランプリというヨーロッパのスポーツの世界に飛び込んでいったのだ。英語が話せないとうえにはいけない世界だ。その彼が日本のホンダと組んで覇権を握ったのである。彼の勝利至上主義にに答えられたのは日本のエンジンだったからかもしれない。冷静に技術を磨くだけなら日本人は世界に類をみないほど努力したから。

しかしグランプリに帰ってきてもう4年目にはいったのに未だに未勝利なんだが、セナが現役だったら乗ってくれたかな?

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