MC5

| BACK |

 

高音圧大音量により文字どおりの激情を破壊的ともいえる旋律によって表現しようとしたMC5は、デトロイトミュージックを語る上で欠かせない存在である。その歴史的な発生図としてもデトロイトの音楽文化を象徴している。モーターシティ5、デトロイトの野蛮な感性。

暴力と破壊を連想させ表現が求める結果は、全く矛盾しているかのように見える思いを共有し連帯することであった。激情と衝動の最大限の放出、そしてその放出されたものに満たされた空間には語り得ぬ、歴史的事件として残るとしてもそれにすべて還元できない「夢」が一時的に共有できるのである。膨大なエネルギーが一時に燃焼するそのコロナこそがデトロイト音楽が持つもっとも根本的な原理であることをこのバンドは如実に語っている。野蛮なまでの感情の露出に戸惑いはない。

リズム&ブルース、ソウル、そのような名前の変遷のなかでこの街に満たされたブラックミュージックを自分の血としながら、それを全く意に介せずにひたすらに自己の感情をむき出しにすることで、自らの表現フォーマットとしたMC5は、最大重量のロックンロールである。フリージャズのリスペクトをマインドにもちながら、ヴォーカルのロブ・タイナーはスクリーミン・ジェイ・ホーキンズ的なシャウトをそこら中にまき散らし、両脇を固めたウェイン・クレイマーはフレッド・スミスとともに歪みきったギターを掻きむしった。

1969年、”キック・アウト・ザ・ジャム”、あまりに有名なこのアルバムはのちにパンクのサウンドスタイルの元祖として認知されることになるが、政治的な意味においても後にパンクが世の中からうけるリアクションと同様の仕打ちを受けた。当時としてはあまりに過激な政治的なスローガンが含まれたため、暴動を扇動するとしてその星条旗をまとったライブパフォーマンスは多くの批判を呼んだ。”キック・アウト・ザ・ジャム マザーファッカー”と叫ぶこのタイトルトラックは各地で放送禁止、または販売中止にとなった。

ウエイン・クレーマーはバンド結成のきっかけについてこう語る。「自然発生的に、近所から、同じ音楽を愛する気のあう仲間が集まってできたんだ。だからこそすべては自然に進んだ。俺はデトロイトに来る前からギターを弾いていたので、バンドを作りたくて、学校でギターを弾けるやつをみつけては声をかけていたんだ。ドラムスのデニス・トンプソンは新聞配達をやっててさ、俺が家でギターを練習していたら”俺はドラムをたたけるぜ”って声をかけてきたんだ。フレッド・スミスとは学校で声をかけてきたんだ。ロブ・タイナーとは、ロブの弟が俺のレース仲間だったんでね。ベースのマイケルは、俺がビートニックにかぶれて、家を出てクールにキメていた時代の知り合いだ。当時おれたちの住んでいた地では、工場で働くか、入隊するか、刑務所にいくか(笑い)、その三つぐらいしか選択肢はなかった。カレッジに行ったやつなんか一人もいないよ。しかし俺もMC5の連中も、そういった両親と同じ道を辿るなんてまっぴらだと思っていた。だから音楽をやることで、新しい自分に生まれ変われる、この町をとびだして世界を見て回り、もっと意味のある仕事ができるかもしれない、と思ったんだ。」

ウェインの生まれたのは1948年だ。年代は多少ずれるが、イギリスのモッズ達と同じ匂いを感じることができる。もしくは75年以降のパンクたちにもダブル。ゼムやキンクスは自分達の労働者階級についてのこだわりをバンドのアイディンティティにしたが、デトロイトにもブルーワーカーとして

 

以下 そのうち続く