ANYTHING ABOUT DAMNED

MAY 5TH 1997

FOR ALL DAMNED MANIA

第2回

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今回はこのページの設立趣旨でもある、イギリスロックの歴史的検証をすこし試みます。

18年ぶりの労働党政権誕生

このほど行われたイギリス総選挙で、事前の予想どおりに、労働党が地すべりてきな勝利を収めた。新聞でも結構な扱だったけど、まあ落ちぶれているとはいえ国連の常任理事国でもあるし、すくなくとも世界的には日本よりは重要な国なんだろうということを思い出した。サッチャー以来の保守党の敗因もいろいろいわれているけど、18年前サッチャーが出てきた時は、遅れて登場するレーガンと並んで、国の再建の指導者としてその力をたたえられたものだ。18年前、1979年といえば、シドが死んだ年だ。前の年にはピストルズが解散した。ダムドは第2期が本格的に始動している。

パンクバンドはどこからきたか

その3年前にピストルズを中心としパンクが登場したとされているが、このころのイギリスの内政は、慢性的な経済不況が70年代中期から急激な失業者の増加の原因となった。1974年末に発表された失業者は約62万人だったが、1976年に120万人、1977年暮れには130万人を突破する勢いだった。しかも今でもそうだが、ヨーロッパの失業者はアメリカ日本とことなり、若年層にいくほどその率は高くなる傾向がある。1977年から1980年の統計によればイギリスの成人男性の失業率が約7パーセントだったのにたいし、18歳以下の失業率は約14パーセントだった。労働者階級ともなるとさらに状況は悪化してたのではないだろう。イギリスの階級差別はわれわれには想像し難いが、おそらく労働者階級の若い奴らは、失業手当でどうにか食いつなぎながら、毎日暇をもてあまして、いらいらしていたのだろう。

パンクバンド生成の図式

パンクバンドはこの連中のなかから生まれて来る。音楽は彼等の自己主張の一つの方法であったし、成功への手っ取り早い方法だった。サッカーの選手になるより可能性が高かった。歌に込める思いはまさに彼等がおかれた環境そのものでよかった。面白くないこと、不満、不平等、当時のイギリスの病巣だ。それはどのバンドを聞いてもわかるだろう。政治的なアジテーションがあるのは仕方が無い。音楽的にはシンプルなもので十分だった。このひどいありさまをシンプルなロックンロールにのせ、おもいっきり怒りをこめてあらあらしく大音量できく。パワーのある若い層が、吐き出すことのできなかった現状への不満を強烈に社会に対して、その思いにふさわしい音で表現した。ベイシティローラーズでは到底感じることのできなかったカタルシスがそこにある。追随する連中も歌いたいことなら山ほどあった。楽器もそんなにうまくなくてもよい。自分たちにもできる、こういう可能性を見せつけたところにもパンクの歴史的な意味はあると思う。いままでの受けて送りてという明確な立場から、両者は同じところで息をしているというより自然な関係に再構成し、その後のインディーに道を開いた。

音楽的な空白

1976年ごろのイギリスの社会的不安がパンクバンドの直接の原因かといえばそうではないが、その背景としては十分検討すべき内容である。さらに視野を広げて当時の状況をみてみると、当時のイギリスのロックはひどい状況だった。70年代初頭から中期にかけて誕生しブリティッシュインベンジョンともよばれたバンドは、その成功とともにアメリカに活動の中心を移してしまった。それらのバンドはある意味肥大化し権威主義的になり、革新的な表現者としての輝きはうしないつつあった。グラムロックやプログレも一息ついたイギリスで、新たな刺激を表現できるバンドはなかった。そのような音楽的空白に描かれたパンクは、人をいてもたってもいられなくする、鮮やかなタッチで描かれたきわめて色彩の豊富な絵画だった。

イギリスの伝統

そのような新しくて刺激のある音楽が、労働者階級から生まれていることも、パンクがイギリスの音楽史におい大きな意味をもつ理由である。イギリスには新しい音楽は労働者階級から生まれるという伝統的な考え方がある。労働者階級から生まれたバンドというと、60年代にはビートルズ、フー、キンクスがいた。その後も列挙にには暇がないだろう。モッズにしても労働者階級のカルチャーであったし、スモールフェイセス、スペンサーデイビスグループなどのモッズバンドももちろんそうである。彼等も言いようのない日常の不満を音楽としてロックンロールを歌った。パンクが社会対してラジカルな姿勢をとったのに対し、彼等は大人との関係、伝統的な生き方、などに対する批判から自己のアイデンティティを求めたといえる。30歳になるまでに死んでしまいたい、というピート・タンジェントの言葉は外界の汚れを批判し、自己の純粋性を求める姿をよく現わしているが、既成の権威を批判し新たな社会の活性を求めているとう点ではパンクと同じ心象風景である。フーのステージスタイルはパンクバンドにとってお手本だったし、ピート・タンジェントはパンクを積極的に評価しようとした。60年代にも労働者階級の音楽は大人や権威に忌嫌われたが、パンクはそれ以上だった。このよう歴史的に連続した意味を、60年代のバンドからパンクバンドとの関係において見ることができる。いうならばパンクは普遍的な世代間ギャプと、イギリス階級社会がはらむ問題という伝統的座標に、混迷の70年代中期という現実的な社会的な問題という軸を加えた上に閃光した。

今回はダムドというよりパンク論でしたが、次回はよりダムドに焦点をしぼって検討します。

次号は5月11日ごろの予定

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