THE HISTORY OF THE CLASH

20YEARS AFTER

そして20年

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COMBAT ROCKから1年以上たっても相変わらず新しいレコードの録音の情報はなく、マスコミはクラッシュの音楽以外の活動やゴシップでお茶をにごすということを繰り返した。1983年2月にはドラムのテリー・チャイムズが再度バンドを離れることになった。

そしてもたらされた新しいニュースはロスアンジェルス郊外で開催される、「アス・フェスティバル(US FESTIVAL)に巨額のギャラで参加することになったということだった。この野外コンサートは2日間にわたり開催され、多数のバンドが参加し、その中にはジューダスプリースト、スコーピオンズ、クワイエットライオット、ヴァンヘイレンなど、そのような祭には似合いのアーティストが含まれている。明らかにクラッシュは異質であり、50万ドルとも100万ドルとも言われるギャラも噂されたので、穏やかではなかった。1983年のことである。

この模様は日本でもテレビ放映された。アメリカではCOMBAT ROCKがプラチナアルバムを獲得して、おしも押されぬ地位についたかたとも思われていたころである。

「クラッシュみたいな政治的に過激なバンドを聞く耳をもつ人間が100万人いるんだから、この世もまだ捨てたものではない」

コスモ・ヴァイナル

だがこのフェスティバルの1日目、ニューウエーブデイと名付けられた日の1番最後に出演したクラッシュへの評はいいものではなかった。名前に負けた、そんな感じだったようだ。ジョーのアジテーションが何万人の楽しもうとしている群衆にかき消されていった。怒れるパンクスはカリフォルニアにはいなかったのである。この時のドラマーは300名を越えるオーデションから選ばれた、元コールドフィッシュの23歳、ピーター・ハワードだった。

その数週間後、ジョーとポールからミックをクビにしたと発表した。8月後半のこの声明の決定の原因は、1983年の「ノッティング・ヒル・カーニバル」の出演の話をミックが受けていたのにも関わらず、他のメンバーに通さなかったため、キャンセルせざるを得なかったことだという。そして新しいレコードの録音は当初、この年の3月に予定されていたが、さらに遅れることになった。

「ミック・ジョーンズがクラッシュを脱退する以外ないという結論に達したのは、彼の考え方がクラッシュの方針と離れすぎたからだ。これからのクラッシュは初心にもどり、本来の仕事に打ち込めるようになるだろう」

9月初めのジョーとポールの声明

この声明はなんら真実を反映していないとミック・ジョーンズは反論した。
彼にはあの二人からなんの話もなかった、っと。

1984年は混沌としたまま明ける。
新しいメンバーが決まったものの、これといって予定は発表されなかった。

新ギタリストとしてヴィンス・ホワイト、ニック・シェパードで、ザ・コルティナズのメンバー。
ジョーはギターからヴォーカルに専念する、そのためのギター二人の加入であった。

なにもないまま1985年になり、なんとかCUT THE CRAPを11月にリリースした。しかしクラッシュの名前こそ十分にまだ価値はあったものの、内容は程遠いといった評価だった。今までのなかでもっとも酷い評価がマスコミから授けられた。
それでもイギリスではチャートの16位まではいったが、アメリカでは171位が最高だった。

1986年1月、ニューアルバムリリースから間もなく、バンドは解散した。