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その当時って1986年ごろだけど、インディー御三家って言われていて、ほかの2つは言わなくてもわかるだろうけど、とにかくこの3バンドのリーダー達は喋りがおもしろかった。でもそれぞれ語り口が違っていて、ケラの場合はなんかテレビ局の人ぽいように思われた。なんかすごく冷めていて、おまえらそんなんでいいのかよ、って感じの突き放したような話し方なのであった。チャーミーの場合だと、どうも守りの姿勢が、JUNの場合だと俺様はねえ、というよな理解されていないけどすごいんだぜ、きっとそうだ、という感じ、なのに比べると、ちょっと売れてしまった芸人が疲れているように思えた。
「DOLL」に載っていたケラの4コママンガなんかも、今読むといかにこの人がシーンとかいうものが短期間で終わって衰退するだろう、という思いに駆られながらシーンの内にいなければならなかったかということ感じる。
今でこそ演劇家になってしまって、成功してしまったが、インディーがなんであったかといことは彼の発言の中に真実があるような気がして、インタビューなど読み返してみている。
その結果はまたここで、更新といかたちで反映します。
略歴
82年4月、「伝染病」というパンクバンドを母体として結成される。
当時のメンバーはケラ、タボ、トシ、チャチャ、ジン、エリコの6人。新宿のジャムスタジオでデビューしてから活発なライブ活動を都内で展開、そのなかから自主企画「東京フリークス」を立ち上げる。どうも演出家というか企画やさん的なケラの活動の指針がこのころからすでに現われている。このころ一緒にやっていたのが「爆風スランプ」や「米米クラブ」だっという。ぱっと見、どれもコミック的要素、キワモノ系で、とくに有頂天はそのケラの動きやサウンド的にも人を食ったような感じで、ニューウエ女(のちのナゴムギャル)層の一部に受けた。
83年4月に「ナゴム・レコード」を設立。「ナゴムです、つぶれます、フフン」ってNHKの番組内で語っていたが、以外にこれがもってしまい、ケラが自らつぶす形で幕を閉じる形で閉めるまで結構賑わった。その自らのレーベルからリリースされたファーストソノシートがそのものずばり「有頂天。このなかの「ゲロ」というハード・コアが当時の姿を物語っている。、その年の11月には初めてのアルバムはピクチャーLP「土俵王子」をリリースした。このアルバムの印象的なイラストを泉昌之が担当、ゲストとしてもサンプラザ中野、鈴木賢二、タンゴ・ヨーロッパ、などが参加し話題の多いアルバムだったが、ケラ的にはまったく不満だらけの作品だったらしい。
その後メンバーチェンジなどあり半年間の活動停止。84年4月から再開。11月には鹿鳴館のギグで観客0人を記録。シーンの中では異質であった。それが嘘のようにメキメキと人気が上昇したのは85年になってからで、インディー3大バンドともいわれるようになった。(これ言っていたのは本当に1部の人間だけだと思うけど)85年11月にはキャプテンレコードから「心の旅」(チューリップのカバー)をシングルリリース。オリコンチャートにランクされたらしい。この間ケラのソロもあった。
続く86年には3月にシングル「ベジタブル」をナゴムから、4月にはカセットブック「ビコーズ」をキャプテンから、立て続けにリリース。とくにカセットブックの有頂天ヒストリーは面白い。初期のどたばたしたコミカルな要素を踏まえつつ、しっかりとした音楽性も見せてくれるようになる。
そしてキャニオンと契約。メジャー入り。メディアへの露出もそれまで以上に頻繁となる。86年9月メジャーファーストLP「ピース」、シングル「BYE BYE」をリリースする。記念すべきファーストだが、なんとなくそこはかにただよう終末の気配が全体を支配している。確かに一つの季節の変わり目だったかもしれない。