風にふかれて

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有馬記念

来年どうなるかなんて考えても仕方がないではないか。今年がどんな年だったかなんてことさえ言えなくなるのに決まっている。言えるとしたって覚えていたいということだけしか残らないのだ。事実が記憶に残るのではない、残したい半分位の事実と、みたい未来の反映といての虚構が思い出をつくるのである。こうありたい、そう思っていることが残るという点においては過去も未来も同じなのである。未来はまだ起きていないが、過去はすでに起きてしまった、この違いはたいしたことではない。未来を思うには過去が必要であり、過去には未来が必要である。未来のない過去なんてなんてかなしいことになることやら。では、不幸を未来に望むわけない、でも過去には不幸がある、このことは?、いや未来に望む幸福ことは同時に不幸を望んでいるのである。未来永劫変わらぬ幸福なんてありえない、これが幸せなんだなんて言葉でくくってしまったらそこから福はにげてゆく。

なのに未来や過去を語り、幸と不幸を言わなくてはいけないのはなぜだろう?

明日やってくる不幸しか本当でなくても人は明日を考えずにいられない。

仕方がないとわかっていてもそうしなくてはいけない、そこがすでに不幸の始まりでもあり、幸福の終わりでもある。

人生が競馬の比喩と詩人は言った。この言葉をかみしめる気分は、過去と未来を考えることに似ている。なんとなく私はそのような気分が自分の生の根底にあるざらっとした感じに似ているように思う。色彩はかなり異なるものの、自分の心を惑わせ、暗黒と光が同時に見える太陽と海がとけあうところを見るようだ。

人生が競馬の比喩、競馬をすることは自分の人生を追体験することかもしれないし、過去も未来にもしばられない人生を考えることかもしれない。なによりこの言葉を理解することで限りなく上昇してゆく想像力から見える緑のターフはかぎりなく自由な緑に、5月の緑に満ちている。

来年を考えることはさして意味のあることとは思わないが、それを来年の競馬を考えるとなると想像の跳躍が軽くなる。いくつもの競馬があることは人生が一つである不自由さに比べればはるかに自由で明るいものだ。しかし人生が競馬をこえることができるのだろうか?比喩はそれ以上の位置をとれるのだろうか?

それは想像力しかないだろう。地球をのみこむ程の想像力こそ競馬をこえられる。

 

まあいきがったところで、馬券には関係ない。馬券はあくまで精神的な純粋性を高める補助的なものであるが、馬券抜きの競馬は成立しない。で有馬記念。

有馬ほどわけのわからんレースはないが、これほど人を走らせるレースもないだろう。ドラマも多いが凡レースも多い。乱ペースと中山の2500に関係があるのはもちろん、このレース独特の緊張感が影響するのだろう。しかしこれは日本人的な競馬の顕著な例であると思う。ダービーよりもジャパンカップよりも盛り上がるんだから、本来の競馬ではない。日本中央競馬会の価値観のもと定められたレース体系が日本人の感性とぴったりなのだ。

いつもいうことだがそのレース体系、本当にタフでないと全部にまじめに付き合おうなんて無理に決まっている。かつてのタマモクロス、オグリキャップ、レガシーワールド等天皇賞、ジャパンカップで良い成績を納めた馬はつかれて有馬ではだめになってしまっていた。全部に善戦することは無理なのだ。逆にいえば有馬前に楽していた馬が勝つのである。

そういう意味でこのレースは最近思い入れがうすくなっている。使われすぎて力がだせなくなっている馬がファン投票とステータスによって無理やりだされて、まるで売れない映画に名前だけだすようなすっかり魅力のなくなった俳優みたいだ。名前をならべた時の豪華さと内容がまったくバランスがとれていない寒い風みたいな感じ。

特に今年の有馬はメンバー的に薄い。去年が豪華すぎたぶんより寂しい。メジロドーベルが本当に勝つような勢いだ。それはそれでメジロライアンの怨念が感じられる。

でも私の本命はマイネルマックスにしようと思う。墜ちた天才、このまま墜ちるか、ハイセイコーの血がさわぐようなきもする。血統うんぬんではない、調子でもない、このままで終わるのでないのなら走れ、走るほかになにがある、夢が消える、大勢の夢が、佐藤哲の夢が、それら思いの強さで走れ。

対抗はシルクジャスティス。切れ味が勝ちに結び付かないもどかしさを馬自身が感じていない無邪気なところがとてもよい。このままもっと伸びて欲しい。後方一気こそ競馬の醍醐味、それも2000以上の追い込みこそ頂点だ。

あとはインターユニーク、タマモクロスの魂が走らせる?そいうことは抜きにしても。他の馬とは違うローテーションはトリックスターになれる要素がある。

そのほかにダンスパートナー、ローゼンカバリーをからめて徹底的な穴ねらいだ。