KOCHANの旅日記 

 

第1回 初めての海外旅行
 

プロロ-グ
私が初めて海外旅行へ行ったのは 1977年の夏でした。まだ成田は開港されていませんでした。何しろ生まれて初めてのことだし、言葉にも自信がないので、とりあえず、団体旅行にしよう、 と考え、新聞の広告で見つけたKロ-タリ-のツア-に参加しました。これはイギリス・フランス・スイス・イタリア・エジプト15日間というものでした。日 程表には利用航空会社E航空、使用航空機材ボ-イング707とありました。私は747の間違いではなかろうか、と思いながら(あのエルビス・プレスリ-の 自家用機が確かボ-イング707だったはずです)、1977年7月のある日羽田空港に向かいました。空港に着き、さて私の乗る飛行機はどれだろうか、と捜 してみましたが、どこにも見えない。ルフトハンザなど大きな飛行機がたくさん見えるのだが、E航空の飛行機は見えない。実はこのとき私の初海外旅行だとい うので、母親や知人数人が一緒に空港に来ていたのでした。みんなで捜しましたが、やはり見えない。そのうち、集合時間になり説明を受け、出発となりまし た。空港ビルディングからバスに乗り、目指すE航空の飛行機まで行きます。どこにあるのかな、と思いながらバスに乗っていると、ルフトハンザの後ろ側へ行 くのです。すると、なんとルフトハンザの後ろ側に隠れて恥ずかしそうにひっそりと、ボ-イング707は私たちを待っていました。これでは空港の送迎デッキ から見えるわけなんかないわけで。そして、とにかく飛行機に乗り込むことになり座席に着いてまたびっくり。 E航空らしく機内の壁はヒエログリフ(象形文字)の壁紙なのですがそれが茶色のしみだらけ。さらにこれから南回りで何十時間も(カイロで乗換えがありまし たがロンドンまで30時間かかりました)乗っていなければならないのに映画はおろか音楽を聴く装置もないのです。おまけに座席の幅も狭く、足元も短足の私 でもきつきつ。
第一章 ヨ-ロッパへ向けて出発
そんなこんなで最初の寄港地マニラに向けて離陸。古い飛行機なので怖いのなんのって。そうこうするうちに、バウンドを2、3回しながら、マニラ到 着。空港の免税店のおじさんやおばさんは、ビニ-ル・サンダルを履いている人もいましたが、裸足の人もたくさんいました。たいして商売気もなさそうにお客 そっちのけでゲ-ムをしていたりする。1時間ほどして次の寄港地バンコクに向かう。2度目の機内食。そう南回りは離陸する毎に食事が出るんです。それも重 いのが。まだ生まれて2度目の機内食だったので、私はパクパク食べていました。すると隣のおばさんが「プリン、かび、生えていなかった?」って聞くんで す。ええ、そう言われれば----。変わったプリンだとは思ったのですが。こんな風にして私の第1回ヨ-ロッパ旅行は波瀾の幕開けをしたわけでした。
 バンコクを飛び立ち3度目の食事のころには、さすがに飽きてきました。このあとデリ-、ジェッダと寄港するわけですが、中近東が近づいてくると、当たり 前のことながら、イスラム教徒の人たちが乗ってきます。白いロ-プを着てゴムぞうりを履いて、といういでたちで。私にしては初めて見ることなので、こうい う民族衣装にも新鮮な驚きを感じました。そして驚くことに(彼らにとっては至極当然のことなのでしょうが)機内の通路に小さな絨毯を敷き、アラ-の神に祈 りをささげたりするのです。もう、写真に撮りたいくらいでした。こうしてカイロで乗り換え、30時間かかってロンドンに上陸しました。
第二章 ヨ-ロッパ初上陸
ロンドンはその年エリザベス女王のSilver Jubilee(在位25周年記念)でたいへん盛り上がっていて、あちこちに女王の写真が掲げられていました。私たち の泊まったホテルはキュナ-ド・インタ-ナショナルという名で、便の悪いところにありました。チェック・インが終わり、とにかく中心部へ行こう、とい うことになり、私は女性連を引きつれて(私の参加したツア-は女性がたいへん多いツア-だったのです。それも後でわかったことですが、学校の先生が半分以上というようなツア-だったのです。)2階建バスでピカディリ-・サ-カスへ 向かいました。当時、ピカディリ-・サ-カス周辺は現在に比べるとずっと危険な雰囲気の場所でした。1,2時間ぶらぶらし、つまらないときを過ごした後、 (というのはこの女性たち、ほとんど先生なのですが、大人の本を売っている店の前をたまたま通りかかると、「早くここから立ち去りましょうよ。」なんて 言ってそそくさとその場所を離れたものでしたが、パリでは女性たちだけで大島 渚の「愛のコリ-ダ」を見に行ったのです。なんたる偽善者ども)例の黒の (最近は黒くないのがたくさん走っていますが)ロンドン・タクシ-でホテルに彼女たちを送り届けました。その後、私は一人でピカディリ-・サ-カスへとっ てかえしました。あっちでフラフラ、こっちでフラフラして、ふと気づいてみると、周りの雰囲気が一変しているのです。ロ-タリ-の周辺は一目で売春婦と分 かるお姉さんや、白タクや、やっちゃんがたくさん出現していたのです。まずい、まずい、早くホテルに帰らなければ、と思い、バス停に行ったのですが、もう 最終は終わっていました。では地下鉄、と地下鉄の駅に行ったのですが、こちらも終電が出た後。じゃぁ、タクシ-、とタクシ-乗り場に並んだのですが、どの 運転手さんも「No,sir!」と、乗車拒否。便の悪いキュナ-ド・インタ-ナショナルなんかには、行ってくれないのです。私は途方にくれてしまいまし た。ホテルの場所なんかわかりゃしない、それに歩いていけるような場所ではなさそうだし。そして何台かに乗車拒否された後に突然ひらめきました。「金の力 だ。」私は10ポンド札を運転手さんの鼻先に突き出し「Cunard International Hotel ,please.」と叫びました。すると運転手さんは「Yes,sir」と元気よく返事をして乗車を許してくれました。(片道だいたいチップ込みで5ポン ト゜くらいだったのです。)こうして私のヨ-ロッパ初日はとりあえず終わりました。
第三章 二日目
二日目はロンドン市内観光でした。団体旅行の常としてすぐ免税店に連れて行かれます。まあ、ロンドンは紳士の町ですし、初めての海外旅行ですから、私だっ て買い物はしたいと思っていました。それに初心者には免税店は結構便利なものです。さて、トラベラ-ズ・チェックを出して(盗難にあった場合を考えてTC を持っていったのです。)買い物だ、とショルダ-・バッグの中を見ると、ないのです。バッグの底まで調べたがない。さあ、大変だ。警察に紛失届を出し、証 明書をもらって、銀行に行き再発行をしてもらわなければ。しかし、添乗員の姿が見えない。もたもたしていられない、なんたって今晩パリへ移動するんだ。 (当時ユ-ロ・スタ-はありませんでしたので、移動は飛行機かフェリ-だったのです。私たちはフェリ-でド-バ- 海峡を横断することになっていまし た。)私は一人で警察にいきました。そして、証明書をもらい銀行に行き、TCの再発行を受けました。ふ-っ。観光もさることながら、ここイギリスは紳士の 町、買い物へ行かなくちゃ。あちらこちらの店を廻る時間はないので、タクシ-で免税店へ直行。アクアスキュ-タムのトレンチ・コ-トを買いました。まだ愛 用してますよ。ついでに近くのオ-スチン・リ-ドのバ-ゲンでセ-タ-一枚。早くホテルに戻らないと、置いて行かれてしまう。結局、みんなが観光へ行って いる間に、私は警察・銀行・買物少し、That's all.大英博物館のロゼッタ・スト-ン(エジプトの象形文字の解読のきっかけとなった石板。3種類の文字が刻まれている。一番上から神聖文字。普通、エ ジプトの象形文字といったらこれですね。二番目が民衆文字。神聖文字の草書体です。三番目が古代ギリシァ文字。要するに同じことが三種類の文字で書かれて あったのですね。古代ギリシァ文字は分かっているので、これをもとにして、象形文字を解読したというわけ。なお、Rosetta Stoneはナポレオンのエジプト遠征のおり、ナイル川の支流ロゼッタ川口で発見したものである。)を見たかったのに。これが私の初めてのロンドンのすべ て。さぁ-っ、次は花の都、芸術の都パリだ。
第四章 ド-ヴァ-海峡を越えて 
夜私たちは、ヴィクトリア駅から電車でド-ヴァ-へ向けて出発。私たちの団体はあらかじめ車両を2つ予約してありまし た。座席のない人たちが隣の車両とこちらの車両の間にいます。たまたま私の前の席が2つ空いていました。するとその席のない外人たちが私の前の空いている 席に座れせろ、と騒ぎ出したのです。添乗員は拒否しました。けれども彼らは騒ぎ続ける。私は添乗員に「座らせてあげれば、いいじゃないですか。」と言っ て、老婆とお孫さんらしい2人を座らせてあげました。このような場合、日本人だったら、百人いれば百人お礼を言うと思います。しかし、彼女たちは一言の礼 も言わないばかりか、ずぅ-っと、仏頂面で不愉快な態度で座り続ける。う--ん、どう理解したらよいのか。文化の違いなのか、たまたま彼女たちがこんな最 低限の礼儀さえも知らない連中だったのか。こんなことを考えているうちに電車はド-ヴァ-に到着。フェリ-への乗船。ヨ-ロッパがひとつになろうとしてい る現在とは違うので、税関のチェックに結構時間がかかる。そこは添乗員も心得ているもので、税関の職員にマルマンの電子ライタ-なんかプレゼントしちゃ う。これで私たちの団体はほとんどノ-・チェック。しばらくして船はフランスのカレ-(ロダンの「カレ-の市民」で有名なあのカレ-です)へと出航。この ようにして私はロゼッタ・スト-ンに思いを残しながら、近い将来の渡英を心に記し、イギリスを後にしたのでした。(しかし次の渡英はなんと19年後でし た。もちろん大英博物館へ行き、ロゼッタ・スト-ンと対面し、並んで記念写真を撮り、レプリカまで買ってきました。)船旅は夜なので何も見えない。有名なWhite Cliff もね。席に座って居眠りをしているうちにカレ-到着。また電車に乗り換え、朝もやの中、パリを目指す。
第五章 パリ観光
ホテルはSevres Babyloneの近くのLutetia 。4つ星Lの最高級のホテルです。ルイ・マルの"Damage"に出てくるホテルです。午後から市内観光へ出発。パリ初めてなら、要領よく見させてもらえ るので、これはこれで結構便利。しかし、よく考えてみると今日は土曜日。ということは当たり前のことながら、明日は日曜日。お店は全部休みだ。月曜日には ジュネ-ヴに出発。パリに来たんだ。フォ-ブル・サントノ-レで買物したいよね。だけど市内観光の後では、店も閉まってしまう。だからといって市内観光、 passするわけにはいかない。本末転倒になっちゃうし。というようなわけで半分あきらめて市内観光に出発しました。いろいろ見て、お定まりの免税店。 あぁ、神は私を見放さなかった。なんと免税店はフォ-ブル・サントノ-レのすぐ近くだったのです。みんなが買物をしている間の時間を使って、フォ-ブル・ サントノ-レに行きました。もう中学生以来の全速力で走って。エルメス に行きましたよ。ウィンドウに素敵なブル-のクラッチ・バッグがありました。値段はエルメスにしては安かったし、それにもう時間がないんだ。店に飛び込 み、東洋人らしい店員さんにウインドウの現物を指差そうと思い、下手なフランス語で言いました。"Avec moi ,s'il vous plait." すると、その店員さんは冷たい口調で一言。「日本語でお話ししましょう。」そう、日本人だったのです。さらに私、「これ、結構、安いです よね。どうしてですか。」 店員さん、相変わらず、冷たい口調で「マチがないですから。」私は妙に納得し、それを買い、免税の手続きをし、大急ぎでみんな のいる免税店に戻りました。そして、もちろんル-ブル美術館にも。ミロのヴィ-ナスと並んで記念撮影もしました。
 夜、北海道で高校の数学の先生をしている人と、府中で花屋さんをしている人の3人でピガ-ルへいわゆる成人映画(interdit moins 18 ansと表示されている映画)を見に行きました。3人とも生まれて初めての経験にワクワク。しかし、10分もたたないうちに3人とも寝息を立てて就寝。寝不足でH映画どころじゃなかったのです。
翌日は7月31日、私の30回目の誕生日。これが私の海外旅行のきっかけだったのです。30歳を目前として何か今まで経験したことのないことをやってみよう、と、考え、怖くてしょうがない飛行機による海外旅行を思い立ったのでした。
午前中ヴェルサイユ宮殿。グラン・トリアノンもプチ・トリアノンも行きません。やっぱりできればプチ・トリアノンは見ておきたいものです。もっともプチ・トリアノンは入り口を入ってから延々と歩かなければならないですから団体ではちょっと無理なのかもね。
 午後Fouquetに行く。観光客でいっぱい。レマルクの「凱旋門」のラスト・シ-ンを想い浮かべながら、expressを飲む。「ラヴィックはここで友達と再会できたのかな。」なんて。う--っ、幸せ。
 夜はMoulin Rouge。一人あたりシャンパンのハ-フ・ボトルがつきます。ショ-の始まる前はダンス・タイム。私はダンスなどしたこともないので、おとなしくしてい ました。しかし、女性たちは踊りたいらしい。そして、ついに引っ張り出される。つまずきながら、どうやらこうやら義務を果たす。ショ-の方はこんなものか な、という感じ。ロ-トレックの絵でも有名なフレンチ・カンカンは「これがあのフレンチ・カンカンか。」というところ。ホテルに戻ったのは午前1時過ぎ。 睡眠不足で体は結構まいっているはず。幸いなのはこの年の夏、ヨ-ロッパは10年来の寒さだったこと。毛皮を着ている人もいたくらい。こうしてパリの上っ 面をなでただけで、パリを去ることになります。
第六章 パリからジュネ-ヴへ
朝、リヨン駅Gare de Lyonよりジュネ-ヴへ行きます。皆さんもご存知のことと思いますが、パリにはパリ駅というのはないのです。北方面へは北駅Gare de Nord 、東方面へは東駅Gare de l'Est 、西方面へはモンパルナス駅Gare Montparnasseというふうに。その他、オ-ステルリッツGare d'Austerlitz、サン・ラザ-ル駅Gare St.Lazareがあります。
 さて、列車は音も無く(そうです、ヨ-ロッパの列車は時間になると音も無く、出発するのです。)リヨン駅を後にしました。(まだTGVはありませんでした。)しばらくして、あることに気が付きました。一人足りないのです。某企業の労働組合の副委員長さんが。結局、駅のキオスクで買物をしている間に、列車が出ちゃった、というわけだったのです 。彼はひとつ後の列車でちゃんとジュネ-ヴに来ましたけどね。
 ジュネ-ヴに限らず、スイスはさすが観光で持っている国、どこへ行ってもきれいです。定番の市内観光は、はっきり言ってつまらない。国連関係の建物や、チャプリンやソフィア・ロ-レンの別荘がレ・マン湖に 沿ってあるとかくらい。ハイライトはモンブラン観光。これはモンブラ ンを向かいの山(エギ-ユ・デュ・ミディ)から見る、というもの。そこへ行くまでのケ-プル・カ-がすごい。仰角60度はあろうと思えるような(あるわけ ないけど)角度で5分ほどで1500m以上登る。耳はキ-ィンとして痛くなってしまいました。展望台では眼下に雲が広がり、高所恐怖症の私には柵のそばヘ 行くのも怖いほど。さぁ、次はイタリアです。
第七章 イタリア
大陸内の移動はバスが使われました。フランスからイタリアまで同じバス、同じ運転手さんというわけでした。イタリアはベネチアからだったのですが、どの辺でバスを降りて、自動車が1台もないベネチアに入ったのかよく覚えていません。とにかく船でベネチアに 入りました。すぐ市内観光。そしてベネチアン・グラスの製作の見学と買物。これも旅行社へのバック・マ-ジンのひとつですね。実質一日もベネチアにいない わけですから、こんなところに何時間もいて、旅行社に協力することもない。ひとりで見学に行くことにしました。添乗員にことわって外へ出ようとしたのです が、ドアには鍵がかかっている。何か買うまで外へ出さないぞ、という構え。これ、団体旅行ではよくあること。鍵を開けてもらい、外に出ました。添乗員さん から「本多さんだからお出ししますけれど、(あ、私、本多といいます)道が入り組んでいますので、迷子にならないように。」と、言われました。その通りな んです。網の目のように道が入り組んでいるのです。迷子になりそうになりながら、見学し、どうやら無事にホテルにたどり着きました。夜は4、5人で酒盛 り。ワイン、ボトル半分くらいしか飲めないのに、調子に乗って1本飲む。部屋に帰り気分が悪くなる。悪酔いで一晩中ゲロゲロ。体力の消耗さらに進む。さ -っと、見ただけで次の日はもうロ-マに向けて移動です。
 ミラノでドゥォ-モを見、(やはり、こんなきつい日程はダメですね。何年かして、私はこのドゥォ-モ見たさに、ミラノへ行っているんです。この時に見ているのに。なんと間の抜けた話であることか)フィレンツェではウフィツィ美術館見学、ボッティチェルリの「春」な どを見ました。ミケランジャロ広場からフィレンツェの全景を臨む。そのすばらしい光景をゆっくり見ている間もなく、ロ-マに出発。夕方、ロ-マに到着。た しかホテルはPホテル。従業員がかなり質が悪い、とのこと。絵葉書を出すのを頼むと、切手代を取っちゃって出してくれないことがよくあると言う話。(添乗 員さんから聞きました)案の定、私も数枚、絵葉書を頼みましたが、日本に届きませんでした。
 翌日は市内観光。夜はカンツォ-ネ。安いツア-の場合、旅行社は何でもうけるか、といえば、オプショナル・ツア-でもうけるのです。だから私のように片 端からオプシュナル・ツア-に参加する人は旅行社にとって大歓迎の存在。もし個人で地元の旅行社やホテルに申込めば3分の2か、2分の1で済むのですか ら。
 次の日はまたオプションでナポリ・ポンペイ1日観光。ナポリは テレビなどで見ると、ぜひ、泊りがけで行ってみたいところですが、この時は高いところから港を見ただけでした。ポンペイの方はというとこれは見ものです。 去年(1998年)でしたか横浜でポンペイ展がありましたが、あんなものでは、本物の凄さを少しも伝えていませんね。高温の火山灰に一瞬のうちに覆われた 人や犬の跡に石膏を流し込んだものを見ることができますが、断末魔の叫びが、聞こえてくるかのようです。
 面白かったのは、娼婦の館。当時ポンペイは港町として栄えていまして、車道や舗道も きちんと整備されていました。(ちゃんと轍も残っています)そして、たくさんの国の人たちが訪れていました。したがって言葉の分からない人たちもたくさん 来ています。そのような言葉の分からない人たちが困らないように、いろいろなマ-クが刻まれている、というわけ。そのひとつが 娼婦の館の前の舗道に刻ま れたマ-ク。なんとペニスの形が刻まれているんです。館の中の壁画も結構なもの。未成年は見せてもらえませんが、男女の営みが描かれているんです。(若い 男女がいわゆるポンペイ式で今まさに、というところなどが、描かれています。)
 観光も終わり一路ロ-マへ。途中、無理やり、カメオの工場に寄らされる。「カメオは将来、値上がりしますよ。」とか添乗員に言われて何人かが添乗員への バック・マ-ジンに協力する。私は気が気じゃない。まだロ-マでは買物をする時間がぜんぜんないんだ。ホテルはコンドッティに近いから、早くロ-マに戻れ れば、買物ができる。明日はエジプトへ移動で買物をする時間はない。バスはアウト・ストラ-ダを全速力でロ-マに引き返しました。そしてホテルへ着くやす ぐにコンドッティに行きました。フェラガモで靴1足、グッチでバッグと紺のバック・スキンのスリップ・オン1足買いました。とりあえず、よかった、よかっ た。明日は最後となるエジプトです。しかしさすがにロ-マは暑く、体はもうくたくたです。

第八章 エジプト
ついにこの旅最後の地エジプトです。飛行機が遅れたため、カイロに着いたのは、夜中の12時過ぎ。ホテルにチェック・インして、風呂に入り寝たのは1時過ぎ。翌朝は4時に起きて、ルクソール行きです。

ル クソール、あのツタンカーメンで有名な町。ナイル川のほとりの近代的なホテルで一服してから対岸の死者の町、ネクロポリスへ出発です。橋がないので船で向 こう岸に行きます。橋を造る計画はずっとあるようなのですが、その後15年ほどしていったときもやはりありませんでした。そしてそのときも計画中、とのこ とでした。私は向こう岸に着いたとき、ペット・ボトルの水を落としそれが割れてしまい、半分以上水が失われてしまいました。当日、炎天下は52度もあり、 休憩所までの数時間はたいへんな思いをしました。お定まりの「ハトシェプスト女王の葬祭殿」や「ツタンカーメンの棺」やアガサ・クリスティの「ナイル殺人 事件」で頭上から大きな石が落ちてきたシーンで有名な「ルクソール神殿」などを見学し、夕方、カイロに戻りました。

翌日は市内観光です。厳密に言えばピラミッドやスフィンクスはギザにありますから、市内観光ではないのでしょうがね。

 

 

 

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