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(pic1)新彊ウイグル自治区の区都ウルムチ見学はバザールから。朝早くから軽食や日用雑貨を売っていた。 (pic2)ウルムチの博物館では、少数民族の生活様式や、近隣で出土した遺物、ミイラなどが鑑賞できる。 (pic3)絨毯はこの地方の特産品だが、良い物はやはりそれなりの価格。 (pic4)早めの昼食を摂ったレストランでは、披露宴の花嫁が花婿の到着を待っていた。 (pic5-7)昼食後はバスでゴビタン砂漠の中を一路トルファンに向かう。砂漠といっても一面砂礫の原。これが「ゴビ」で、砂漠とは違うのだと教わる。左手(北)はるか彼方には雪を冠った天山山脈、道路脇には石油(天然ガス?)の採掘場や、風力発電の風車が。このあたりは中国で最も強い風が吹くのだそうだ。3時間ほども走ったろうか。 (pic8)やがてレンガ積みの細長い建物が見えてくる。葡萄の乾燥室だ。 (pic9-13)砂漠に点在するオアシスには、遠く天山山脈から流れ来る雪解け水と、砂漠の地下から掘り出されカレーズを流れる水が引かれ、人々の生命を維持している。建設機械も無かった時代に、これだけの地下水道を造るのは大事業だったに違いない。カレーズの入り口では、幼い姉妹が干し葡萄を売っていた。乾燥した果物は大事なミネラル源だ。彼女の笑顔に釣られたか、一袋5元(約70円余)の安さ故にか、何人かのオジさんたちがここで干し葡萄を買った。 (pic14-18)交河故城はかつてこの地に栄えた民の街の跡。後ろに断崖を背負った天然の要塞だったが、今は面影もない。 (pic19)トルファン近郊では小さな回教寺院が目に付く。 (pic20-22)夕食後は、葡萄棚の下で民族音楽と舞踊の鑑賞。最後は観光客も入り乱れての盆踊り大会と化した。 (pic23)ほろ酔い加減で、数人で薄暗い街へ散歩に出掛けた。映画館前の広場は、シシカバブを摘まみながら酒を飲む大人に混じって、子供たちがはしゃいでいた。帰り道に小さな酒屋さんで、「この店にある最も高価なワインを見せろ」と言ったら、「楼蘭」が紅白2本で80元(約1200円)だった。
(pic24)翌日はマイクロバスで更に東へ向かう。 (pic25-30)西遊記にも出てくる火焔山の脇を通り、先ずは高昌故城へ。入り口から中心部へは驢馬車に乗る。円形の建物跡が、イスラム世界の影響を残す。中へ入ってみると、丁寧に正確に小さい煉瓦が積み上げられていた。 (pic31)アスターナ古墳群はミイラが発掘された跡。彩色壁画が残っている。 (pic32)ベゼクリク千仏洞は、天山山脈から流れてくるムルトゥク川に火焔山の山裾が落ち込む崖に彫られていた。ここの土産物屋では、お茶のサービスの代わりに、西瓜や哈蜜(ハミ)瓜が無料で食べ放題だった。 (pic33)日が高く昇るにつれ、火焔山はその名のごとく山肌を赤く染め上げた。 (pic34)更にデコボコ道を東進すること2時間ほど、小さな軍用空港で手荷物を掻き回された後、敦煌へはプロペラ機で。
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(1999年9月)