特別史跡“閑谷学校”をご案内致します(1/6)
  
'01/06/02

 前々から一度出かけてみたいと思っておりました特別史跡“閑谷学校”に、ヤッと出かける事が出来ました。
 本当は、こんな真夏日に出かけますよりは、紅葉の時期に出かけましたら大変美しい景観が楽しまれたのでしょうけどネ…

 入場料 300円が必要ですけど、入場の際に頂きましたパンフレットより引用し“特別史跡・閑谷学校”をご案内させて頂きます。

【特色】

 閑谷学校の建造物の特色は、第1にすべて屋根瓦に備前焼を用いた事である。そのため近くにわざわざ窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いた。その結果、全体がいかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気をかもしだしている。

 第2に学校の周囲に 765mに及ぶかまぼこ型の石塀をめぐらしていること。これも中国の唐様をまねたもので石積みが精密を極め全体によく調和している。

 第3に建築材料はけやき、くすのき、ひのきであるが、よく吟味され、主要な建造物は黒漆またはふき漆に仕上げてあり、講堂の床板などは現在でも鏡のように光っている。また細部に渡って注意が行き届いており、屋根の構造がこけら葺・流し板・瓦と三重に重ねてあったり、万一瓦の下に雨漏りした時に水はけが出来るように軒先に備前焼のパイプを取り付けたり、講堂の巴瓦が6葉、孔子廟が無紋、閑谷神社が揚羽蝶と言うふうに、それぞれの建造物に意味を持たせて作っているなどは全く敬服のほかはない。

 ただ、藩主が学校を訪れた時に使用する小斎だけは数寄屋造りの簡素な建物であるが、これもよく見れば、茶室風のいかにも風雅な味わいがあり、武士のゆかしさを充分くみ取る事が出来る。

【閑谷学校の歴史】

 1666年(寛文6)備前藩主 池田光政は、和気郡木谷村の北端延原の静寂な山ふところを見て、庶民のために一大道場建設を思いついた。そして、同8年この地に手習所を設け、10年から重臣 津田永忠によって本格的な工事に取りかかり、地も閑谷と改められた。さらに1674年(延宝2)に木谷村の内高 279石6斗5升8合を藩領外とし、閑谷学問所領として自立経営が出来るように配慮した。

 この意思は、次の綱政にも引き継がれ、1700年(元禄13)には学田21町7段1畝15歩、畑7町6段1畝15歩、学校林71町2段7畝を定めて、これを耕作するために63戸移住させている。

 つぎに光政は、当時領内にあった手習所を廃止しこの学校に統合した。これは一見、封建大名の絶対主義的統一性の表れのように思われるが、それだけかえって光政がこの庶民教育をいかに重要視したかがうかがえる。

 さて、学校は江戸時代を通じ岡山城下にある藩学校と並んで藩の二大教育道場として明治維新まで続くが、その歴史と伝統は脈々と今日まで引き継がれている。
 すなわち、明治6年山田方谷による閑谷精舎、同17年から西薇山寺による閑谷學、同36年私立閑谷中学校を経て、県立閑谷中学校、岡山県立閑谷高等学校に発展し、そして現在の和気閑谷高等学校及び、青少年教育センター閑谷学校と続くわけだから、まさに320余年の歴史を持っている。

【椿山・紅葉亭・火除山】

 椿山は俗に椿谷ともいい、学校創設者 池田光政の死後、その髭、髪、爪、歯などを納めて霊地とした所で、彼を祭る閑谷神社の東に並んでいる。

 一つ谷を離れて東に谷川を400mばかり上ると紅葉亭があり、往時生徒が逍遥したところで、頼山陽もこの地を訪れてその景色を賞美し、紅葉亭記をしるしている。

 また、光政、綱政の二代に仕え、閑谷学校の建設及び経営に心血をそそいだ津田永忠は、そのためにわざわざ住居を閑谷に設けたが、現在は学校と紅葉亭の中間に宅地の石垣がわずかに名残をとどめているのも感慨無量である。
 さらに、学校から1kmばかり南に下がった道の両側に石門があって、ここからが学校内であることを示している。
 この石門は実際には4.46mと記録されており、道が高くなったために主要な部分が地下に埋もっている。

 最後に、現在資料館のある場所が、かって学舎、学房のあったところで、そこと講堂などの諸施設の間に火災を防ぐためにわざわざ火除山を造っているが、このために、学舎、学房は何回か火災があったにも拘わらず、講堂などが無事今日まで保存されて来たのも注目してよい。

 


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